muggy

ゾロナミ

 たっぷりと湿気を含んだ熱波に包まれるこの海域に入り込んで早三日。全身を毛で覆われた小さな船医をはじめ、クルーたちはこの蒸し暑さにすっかり音を上げている。座ろうが立とうが寝ようがじわじわと汗ばむ肌が、不快だ。うちの優秀な航海士によると、この気候はまだ数日続くらしい。
「なら、花火でも打ち上げるか」
 メシでも食うか、くらいの軽さで言い放たれた船長のその提案は、あっさりと賛成多数を勝ち取った。結局のところ、皆も暑気払いの宴を派手に楽しみたいのだろう。
 俺にしたって美味い酒が飲めるのは歓迎だった。そんなこんなで開催が決まった海上花火大会は、半日足らずで完璧な準備がなされ、浮かれたクルーたちはどこから引っ張り出してきたのか、揃いも揃って浴衣など着付けて船上はすっかり祭りの様相だった。
 日が暮れて空はすっかり暗くなったというのに、昼と変わらぬ蒸し暑さにうんざりする。酒瓶を片手に並んで座った階段で、ナミがパタパタと扇ぐうちわの風が心地良い。
「なぁお前はあれ、やんねぇのか?」
 ぼーっと巡らせた視線の先、打ち上がる花火を見つめるロビンを指差して尋ねる。
「ん? あぁ、おだんご? ね。可愛いわよね、ロビン」
 おだんご。食いもんかよ。
「可愛いかどうかはよくわかんねぇけど。髪長ぇの暑くねぇの?」
「暑いわよ。でも浴衣の着付けなんて久しぶりだったから、帯締めたらなんだか疲れちゃって。髪までやる元気なかったの」
 早く飲みたかったし、と小さくのぞいた舌の赤さに、思わず喉が鳴る。衝動的に欲しい、と思った。
「結んでやるよ」
 言うが先か、ナミの座る二段上に腰掛けて、腕のバンダナを外す。
「え〜それで結ぶの? 臭くない?」
「昨日洗ったばっかりだ」
「本当?」
 本当は、昨日は服のまま男連中で水浴びをしただけだったが、洗ったようなもんだろう。訝しげなナミの視線に気づかないふりをして、目の前のオレンジ色に手を伸ばす。
 熱のこもる長い髪を指で梳かすと、指先が触れる地肌は柔らかく湿っていた。差し込んだ指先が滑る跡は小道のように髪を分かつ。ザクザクと指を差し込んでは滑らせるその度に香る髪。
……いや、待て待てもう少し。
 頭の形に沿って下から撫でるように髪を梳かして、耳の後ろ、少し高い位置で一つにまとめると、ナミの口からほう、と吐息が漏れた。髪を引っ張らないように押さえながら、バンダナを巻き付けてキュッと結ぶ。
「うっし。どうだ?」
 ロビンのようなだんごの形には出来なかったが、ナミは満足気に笑みを浮かべている。首元を覆っていた豊かな髪は、毛束になるとその量と重さを軽くしたようにふわふわと揺れる。誘われているようだと思った。
「涼しい〜ありがとう」
 肩越しにこちらによこした視線はいつもの温度のままで、何故だか悔しい気持ちになった。
 まとまりきらなかった襟足の後れ毛を指先ですくう。うっすらと汗に濡れたうなじが甘く香った。これほどまでに女、であるのに、俺の前ではどうして、女になってはくれないのか。
「なぁ」
 すくった後れ毛をくるくると指先に絡め取る。毛先からゆるく巻き取ったそれが俺の指を柔らかく覆っていく。
「なぁに」
 間延びした声に、まだダメか、と落胆する。くるん、くるんと輪を描くように、絡めていった細い毛束が一気にほどけて落ちた。
「なぁ」
 ぺたりと貼り着いた後れ毛をかき分けて細いうなじをあらわにする。打ち上がる花火の光が伝い落ちる汗を照らし、薄い肌がキラリとひかる。光の粒に引き寄せられて鼻先を寄せれば、先ほどの甘い香りがいっそう濃くた。
「ちょっ、くすぐったいな」
「それだけかよ」
 すん、と息を吸いながら唇でその肌に触れる。んっ、と小さくこもった声と、揺れて俺の頬にかかる束ねたオレンジ色の毛先。
「もっと」
 よこせよ。
 唇を付けたままねだる。その声を、表情を、女のお前を全部、俺に。
「んん…….ちょ、っと」
 甘くなる声に気を良くして、一段降りてナミの背にぴたりとくっつくと、後ろから身体を抱き寄せた。胸に当たる背のあたたかさ、柔らかな木綿の生地にドクンと心臓が揺れる。剥き出しのうなじに口を寄せ、歯を立てぬように甘噛みする。首筋を伝う汗の滴を舌が捕らえて、ほのかに塩味を感じる。このまま全部、喰らい尽くしたい。
「あっ、ぞ、ゾロっ」
 大きく開けた口から舌を覗かせて、その先をうなじの曲線に這わせた瞬間。
「っ! 痛っ、てぇ……てめっ!」
「っもう、調子乗りすぎ」
 思い切り食らった頭突きに脳天が痺れて、勢い噛んでしまった舌から錆の味の血が滲み出る。マジで痛ぇ。
「んだよ。結んでやったんだから褒美の一つくらいいいだろう」
「ご褒美をなににするかはあげる側が決めるものよ」
 立ち上がって俺を見下す蔑むような視線が、噛み切った舌よりも痛い。これだからこの女は。
「……じゃあ、何くれんだよ」
 思い切り睨み返しても少しも怯まない強さに、吸い込まれていく気がした。じっと睨み合った目がふいに和らいで、企み顔でにこりと笑う。
「もう一度、髪を結ぶ権利をあげるわ」
「あぁ? んなもん褒美に」
「なると思うわよ?」
 ゆっくりとしゃがんだナミの視線が同じ高さになって、打ち上がった大きな光に照らされ完璧な笑顔が浮かび上がる。この胸のざわつきは悪い予感か、吉兆か。
 ドーン、と腹に響く音と共にスッと伸びてきた細い指は、俺の首筋を一瞬撫でて滲んだ汗を絡め取っていった。
「今度はうまくやんなさい」
 くるりと背を向けて行ってしまったナミの指先、掬い取られた汗のしずくが滴り落ちる。左右に動く尻の動きと対になるようにフサフサと揺れるオレンジの毛束。俺が結んだ、あいつの髪。
「あ、」
 頭上に降り注ぐ花火に照らされて、結び目の左右にのぞく小さな耳が、先端まで紅く染まっているのがチラリと見えた。
 なんだ。ちゃんと女になってんじゃねぇか。
 ナミの変化を認めて自然口元が緩んでしまう。無防備なくせにどこまでも強がりで。素直に女の顔を曝け出してくるのはいつになることやら。これだからうちの航海士は、かわいくてたまらない。
 蒸した空気に吹き込む淡い風がサワサワと、あいつと俺の髪を揺らして行き過ぎていく。

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