Be mine

ゾロナミ

 手の中でずっしりと重い紙袋を、そっと覗いて、テーブルに置いた。受け取られることなく私の手に残ったパステルグリーンの紙袋。持ち手に結んだオレンジ色のリボンがくるりと跳ねて、それだけが妙に浮かれて見えた。
 お菓子作りが苦手な私が唯一作れるようになったのは、チョコレートケーキだった。母に習ったズボラレシピで、分量さえ間違えずにしっかり混ぜて型に流せば、しっとりと濃厚なチョコレートケーキが焼き上がる。13日、日曜日。母と姉が出払った隙に、慣れた手順で作ったケーキ。それを今日、好きな人に贈り損ねた。
 チョコレートが苦手なあいつが、毎年この日、いろんな女子から気持ちと一緒にチョコを贈られて、その全てを断ってきたのを知っている。チョコも、気持ちも、まるめて全部。だからこうなることだって簡単に予想はできたし、むしろこうなることの方が自然だったのだ。
 幼馴染みだからといって、私があいつの特別だなんて思い上がってたわけじゃない。でもほんの少し、期待はしてた。あいつの一番近くにいると、きっと受け取ってもらえると、そう安易に考えていた昨日の自分が憎らしい。

 西日が差し込む昇降口で靴を履き替えるゾロの後ろ姿にホッとする。肩にかかったいつも通りのぺしゃんこバッグ。手には何も持ってない。誰からも、受け取ってない。
「ゾロ!」
「おー。今帰りか?」
「そ。一緒に帰ろ」
 並んで歩く帰り道。厚着したコートの腕が、わずかに触れるほどの距離。いつも通り、自然に。
「あんた今年ももらえなかったの?」
「あぁ? 全部断ったんだよ、知ってんだろチョコ食わねぇの」
「本命の子もいたかもしれないのに〜」
「俺が気に入らなきゃ意味ねぇだろ」
 興味なさげに言い放つその横顔はいつもと変わらず整っていて、この顔で「いらない」と言われたら、辛いなぁと思う。気持ちの読めない綺麗な横顔。夕陽に透ける薄い色の瞳は、私を見てくれるだろうか。
「ねぇ」
 声をかけたその時、向こう側から来た自転車が通り過ぎる。なんとなく庇うように私に寄ったゾロの脚に、手に持っていた紙袋が当たる。
「ん? ……お前も誰かに渡すのか」
「あっ、これはその……」
 パステルグリーンの紙袋、持ち手にはオレンジのリボン。意を決して顔を上げて、ゾロと向かい合うように立つ。緊張と不安と高揚で、高鳴る胸は痛いくらい。渡すならきっと、今。
「これ、」
「やめとけよ、そんな本命みてぇなの。重てぇだろ」
「えっ……」
 紙袋を見つめる顔はいつになく険しくて、眉間に寄せる皺の隙間に苛立ちが滲み出ていた。
「手作りかなんかだろ? そんなん出されちゃ断れねぇから。相手のためにもやめとけ、な?」
 不機嫌さを隠さずにそう言い切ると、ゾロはふい、と視線を向こうにやった。
「重い、か。……ははっ、そうね。好きでもない相手にこんなの渡されても、その人困るよね。やめとこっかな……」
「おー」
 静かに頷いて、ゾロは先に歩き出す。
 あぁ、差し出すこともできないのか。受け取ってもらう以前の問題。断られた女の子たちとは、同じ土俵にも立てなかった。私からの気持ちは、重たくて目を背けたくなるような、いたましい腫れ物だった。
「あー……、ごめんゾロ。私今日夕飯作る当番だった。先帰るね、じゃ」
「あ、おい」
 早口でそれだけ告げて、視線も合わせず走って逃げた。こんな惨めな顔の私を、それでもまだ好きな人に見せたくはなかった。
 陽が沈み、薄紫に染まる空。冷える指先に引っかかる、袋の持ち手がやたら重くて、ぎゅっと拳を握りしめて、家までの道をひたすら走った。息を上げて、鼓動を速めて、胸の痛みを誤魔化すように。

 相変わらずくるりと跳ねる、浮かれたリボンの端を摘んで、するするするとほどいてあげる。結んだ時とは真反対の、暗く沈んだ私の気持ち。
 紙袋から包みを取り出す。透明の袋の中に、ちょこんと入った一切れのケーキ。底に敷いた可愛い柄のワックスペーパーも、今はただただ滑稽に見える。慣れないことはするもんじゃない。頑張った分だけ、浮かれた分だけ、実らなかった時の悲しみは深い。
 袋を開けてケーキを取り出すと、ビターチョコと洋酒の混ざった甘く濃い香りが漂う。昨日はいい匂いだと思ったのに。むせかえるような甘い匂いに、酔ってしまいそうだと思った。
 手掴みのまま、ケーキを口に運ぶ。角の部分に齧り付くと、しっとりと甘いチョコレートの生地が口の中でほろほろとほどける。
「美味しいじゃん……」
 母のレシピはどれも美味しくて、私の大好きな味だった。ゾロにも、食べて欲しかった。
 作ったケーキも、込めた気持ちも、まるめて全部否定された。ゾロには必要がなかったのだ。他の女の子たちと同じように、私のチョコも、好きな気持ちも。
 虚しさと一緒に食べ進めるケーキはどこまでいっても美味しくて、無心で口を動かした。一口ごとにしっかりと味わって、噛み締めて、飲み下す。ゾロを好きだと思う気持ちもまとめて消化するように。
 手の中のケーキが消えて、終わった、と思った。
 広げたワックスペーパーの上、ポロポロと落ちたケーキのかけらが未練がましく残っているのを、紙ごとくしゃくしゃにして包んでゴミ箱に放り込んだ。紙袋もリボンも、ケーキを包んだ袋も全部、まとめてゴミにしてやった。
 ここまでしてもどうしてか、喉元にもったりとケーキが残る気がしてしまう。引っかかって残る未練も全て胃の中に収めたくなって、飲み物でも飲もうかと席を立った瞬間、インターホンのチャイムが鳴る。
 ボタンを押すとモニターに映る、見慣れた緑色の短髪。ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
 どうして? 
 浮かぶ疑問と戸惑いに反して身体は勝手に反応していて、気づけば玄関のドアの前。躊躇いながら手を伸ばした鍵を縦に捻って、ひとつ深く息をして、開いたドアの向こうに、今一番会いたくて会いたくない人が待っていた。
「なに?」
向かい合ったゾロの瞳が、しっかりと私を捉える。
「……メシ、作ってねぇじゃん」
 止まったままの換気扇、制服姿で出てきた私。逃げるためについた嘘は、簡単に見破られてしまう。
「あぁ、作り置きがあったから、良いかなって……」
 低く唸るような声が相槌なのかどうかも分からない。それを問い詰めるためにわざわざ家まで来たのだろうか? 
「もういい? 寒いしゾロも早く帰っ……」
「悪かったよ、その……、お前を傷付けるつもりはなかった」
 気まずそうに伏せられた視線。怒ったような、でも困っているような。ぎゅうっと寄った眉間の皺がふっ、と緩む。
「嫌だった。お前が作ったモン、他の男が食うのとか。お前が誰か知らねえ男を想ってチョコ作ったこととか。そばにいんのは俺なのに。俺すっ飛ばしてお前が他の男とくっつくとか、考えたら胸糞悪くて。傷付けようとしたわけじゃねぇ。ごめん」
「なにそれ、嫉妬みたい」
 冗談っぽく言いたかったのに、うまく笑うことができずに、言葉だけが上滑りする。そんなふうに言われたら、期待してしまう。
「なぁあれ、誰にやるつもりだった? 俺の知ってる奴?」
 顔を覗き込まれて、反射的に下を向いた。目が合ってしまったらきっと、言葉すら出てこなくなる。もういい加減気付けよ、バカ。
「……ゾロだよ」
 ハッと息を飲む気配。小さく聞こえた呼吸音に、緊張感が増していく。ドクン、ドクン、と騒がしくなる心臓の音が、早く言ってしまえと私を急かす。
「ゾロのだったの。あの重たい本命のチョコレートケーキ、あんたに渡すつもりで、作ったの」
 言ってしまった。もう過ぎたことにするつもりだったのに、言葉にしたら溢れ出す好きの気持ち。永く募らせた想いの終わらせ方を、私は完全に見失ってしまった。
「あれ、今くれって言ったらもらえんのか?」
「遅い。もう食べちゃった」
「残ってねぇの?」
「ないよ」
「カケラも?」
「ない」
「気持ちは?」
 気持ちは、なんて聞き方。
「嫌いになった?」
 ずるいよ。そんな聞き方。
「俺はナミが好きだけど」
 言葉の意味が理解できるまで少し時間がかかって、理解できたらそのあとは、全身の血が顔に集まったみたいにただひたすら頬が熱い。恥ずかしさと嬉しさでめちゃくちゃになった顔を、まだ見せるわけにはいかない。
「……気持ちごと、食べてなくしたつもりだったんだけどな」
 場を持たせるための負け惜しみのような言葉は、本当の気持ちを告げるための起爆剤。
「言葉一つでドキドキするくらいには、まだ全然、ゾロが好き」
 やっと顔を上げることができた。なんだ。ゾロも顔、赤くなってるじゃない。
「やっぱケーキもらっていい?」
「だからもうないってば」
「こうすればいいだろ」
 言いながら、大きな手が頬に添えられる。ひやりと冷たくて、硬い指先。直後に触れた唇は、熱くて少しかさついていた。
「甘ぇ」
「そりゃ、……チョコレートケーキだもん」
「美味かった。またくれるか?」
 向き合った薄い色の瞳に私が映る。大きな両手が私の頬を包み込む。体温が上がり、心臓が騒ぐ。好き、が溢れて止まらない。
「……また、来年ね」
「そんなに待てねぇ」
 近づいてくる唇に、指を差し出して歯止めをかける。
「ゆっくりいこうよ、心臓もたない」
「思春期の男にそれは酷だろ」
「や、でも」
「ずっと、我慢してたんだよ」
 ゾロの手がかさりと頬を撫でて、そのままするすると背に回って、長い腕が、大きな胸が、私ごと包み込む。押し当てられた胸から響く心臓の音は、私のと同じくらいうるさくて。
「嫌がることはしねぇから」
 腕に包まれた耳に穏やかな声が届く。
「大事にする。ナミ」
 あぁ、ゾロも私と同じように緊張して、同じくらい恥ずかしくて、それでも気持ちを伝えにわざわざやって来てくれたのだと、ようやく、分かった。
「うん、よろしく」
 ゾロの首筋に頬を寄せてコクリと頷く。さっきよりも力のこもった腕の中、心地良く熱を分け合って、想いが通じた喜びをゆっくりと噛み締めた。

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