好きも嫌いも知らないままに

ゾロナミ

 夜の街に消えていくナミの後ろ姿を見つけた。
 派手なネオンで縁取られた街の輪郭は不自然に華やかで、その内にある欲望も愛憎も、チカチカと目を焼く光で誤魔化している。そんな場所に、アイツが吸い込まれていく。
 揺れるオレンジの長い髪。スラリと伸びた脚は今夜、長い布地のスリットからチラチラと見える程度。だが剥き出しの肩はいただけない。どうせ鎖骨のくぼみも胸の谷間も丸見えで、男を誘うには充分すぎる格好に違いない。
 胃のあたりに広がる不快感。ムカムカと込み上げる苛立ちと、仄暗い欲望。
 姿を見失う直前で足を早めた。アイツを欲にまみれたにやけ顔の男たちの捌け口にされちゃたまらない。小走り気味にナミに近づき、華奢な手首を捕まえる。
「おいっ」
「わっ! びっくりした、ゾロじゃんどしたの」
 振り返るナミは目を見開いて、俺を真っ直ぐに捉えた。やっぱり。丁寧に施された化粧もざっくりと開いた胸元も、憎らしいほど街のネオンに映えていた。
「どしたの、じゃねぇよ。こんなとこ一人でなにフラフラしてんだよ」
「お酒飲めるとこ探してたの。ちょっと、通り一本間違えたかもだけど」
「酒を飲むだけなら間違いだな。他に目当てがあるなら当たりだろうが」
 あー、と若干気まずそうにナミの視線が泳ぐ。
「なんだよ、やっぱ男目当てか」
「そういう言い方しないで。別にそれが目当てではないわよ。本当にお酒飲みたくて、あわよくば奢ってもらおうかな〜、って」
「奢ってもらって、そのままヤんのか」
「それはその時の流れでしょ」
 否定しねぇのか。胸糞悪い。
「お前、俺じゃ足んねぇの?」
「足りないとかじゃないよ。島に降りた時くらい私以外と遊んだらいいかなって」
「俺のためだってか」
「ためっていうか、だって、私たちはそういうんじゃないでしょ?」
 確かに。そういう、いわゆる付き合っているとかの関係ではない。ただ気分が乗ったときに互いの身体を借りるだけの、間柄だ。
「縛らない約束じゃない。船にいる間は仕方ないけど、島に降りたら自由でしょ」
 仕方ない。ナミは仕方なく、俺に抱かれている。船の上じゃ他にそういう相手を作っていないから。俺しか相手がいないから。
「自由なら……誰でもいいなら、俺じゃダメなのか」
「……はっ?」
「島に降りたら俺は、お前の選択肢の中にも入らねぇのか」
 口にしたら、ぎゅっと痛み出す胸の奥。続く言葉が出てこなくなる。
「入れちゃ、いけないでしょ。そんなのまるで」
 好きみたいじゃない。
 彷徨った視線がしゅんと足元に落ちていく。
 小さく吐き出されたその言葉が、俺の胸をギリギリと音を立てて締め付ける。
 好きも嫌いも知らないままに身体を重ねた俺たちは、この期に及んでようやく互いの機微を知る。俺の内側に広がり続ける黒く醜い感情も、同じくらい昂っている己の欲望も、何も知らなかったあの頃にはもう戻れないことを告げていた。

 手を引かれたまま、ギラギラと暗闇を照らすネオンの中を進んでいくと、その光が妖しさを増すホテル街に迷い込む。島でゾロと二人、一夜を過ごすことは今までになかった。二年前も、再会後も。
 身体を重ねるのは船の上でだけ。それはただ欲を発散するための行為で、きっとそれ以上の意味はなくて。そう自分に言い聞かせて、ゾロに言葉なんか求めてはこなかった。『他にいないから仕方なく』なんて言われてしまったら、なんともない顔をして抱かれるなんて、もうできないと思ったから。
 島に降りた時くらい自由にしたいだろうと思って、初めて抱かれたその夜に決めたこと。
 お互いを縛るようなことはしない。
 何をどう、と明確に決めたわけではないけれど、そういう建前を持つことで期待しないようにしたかった。ゾロを好きに、なりたくなかった。
 なのに今、この状況は何なのだろう。今夜、私はゾロに抱かれるのだろうか。その行為に、意味はあるのだろうか。
「ねぇ、」
「ここでいいか」
 いかにもな看板が光る安宿の前で立ち止まる。黒く塗りつぶされたドアの向こう、足を踏み入れてしまえばしまえば私たちは、男女になれるのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってよ。するの?」
「しねぇの?」
「なん、で……ここ船じゃないよ? 他にたくさんいるじゃない」
「お前は、他が良いのか?」
 何を考えているのだろう。
 暗い瞳の中には確かに欲が灯っている。でも、だったら、そこらへんから次々に寄ってくる他の誰かにぶつけたらいい。仕方なく、ではなくなった時、私は期待してしまう。そうなったらもう、引き返せない。
「私が、じゃなくて、あんたが」
「あ?」
「黙っててもいろんな子、寄ってくるんだからさ。好みの女選んだら良いじゃない。島にいる時くらい、自由にやりな──」
 言い切る前に強く手を引かれて、勝手に開いた黒塗りのドアをつんのめりながら通り過ぎる。さっさと空いた部屋を選んだゾロは狭いエレベーターに乗り込むと、その壁に私の身体を押し付けて噛みつくようなキスをする。
「んんっ!」
 じん、と痛む背と荒い舌に、涙が出そうになる。息をするのもままならなくて、へろへろと腰が抜けていく。くずおれそうになる直前に腰を抱かれ、ちょうど到着したエレベーターを抱えられながら降りていく。
 ヒールの靴が脱げそうになりながらもつれる足を動かして、ゾロが開けた部屋に滑り込む。
 部屋の真ん中にどーん、と現れる大きなベッド。その上に勢いよく放られて、ゾロの身体が覆い被さる。
「ねぇ待って」
「やだ」
「ねぇ、」
「……」
「ねぇ!」
 服を脱がしかけた手が止まる。
「ねぇ、ゾロ」
 合わない視線がもどかしくて、その頬を両手で挟んで無理矢理こちらを向かせる。怒ったような動きの荒さとは対照的に、その瞳は酷く傷ついていた。
「なんで……」
 そんな顔をするの。
 はぁ、と深いため息を吐いて、ゾロは身体を起こした。
「悪かった、無理強いして」
「ん……」
「……嫌だったんだよ、お前が他の知らねぇ奴に抱かれるとか。こんな格好で肌晒して。ホイホイ寄ってくるんだよ絶対。欲まみれの気持ち悪い男が」
 言いながら歪む表情があんまり辛そうに見えて、思わずその手を握ってしまう。
「なぁ、俺じゃダメか?」
 ぎゅっと握り返された手にドクン、と心臓が高鳴る。
「ナミ、好きなんだよお前が。縛らねぇ約束だったけど、約束破って縛っておきてぇと思うくらい、好き」
 好き、という台詞が、この男から聞ける日が来るなんて思いもしなかった。期待してはいけないと、好きになってはいけないと、繰り返し言い聞かせて、それでも抱かれるそのひと時に密かに気持ちを昂らせて。
「好き、とか。あんた、どういう意味か知ってるの?」
「そのくらい知ってる。馬鹿にすんな」
「ごめん。え、本当にそういう意味の、好き?」
「そう。信じらんねぇ?」
 眉間の皺を深くしながら睨むように私を見つめる。この顔はきっと、どうすればいいか分からなくて次の言葉を迷っている顔。身体を起こして、ゾロと向き合って。
「信じさせてみて。もう一回、ちゃんと言ってよ」
 ゾロが言うとなんだか作りものみたいに聞こえてしまう言葉だけれど。
「好きだ」
 抱きしめながら耳元で囁いた、これがお芝居の台詞だったとして、こんなに染み込む響きを持たせられるほどこの人は器用ではない。演じることのできない正直な人だから、真っ直ぐに届く台詞があるのだと、私は初めて知った。
「私も、好きよ」
 同じくらいの熱量で届けばいいと願いながら。
 好きも嫌いも知らないふりで続けた不毛な関係は、今夜その役目を終えた。これから先の関係は、好きの延長に結ぶ縁。
 


 

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