天気予報は当てにならない。
薄曇りの空を見上げて思う。朝の予報じゃ一日快晴なんて言っていたはずだった。いつもそうだ。朝晴れると言ったのに夕方には雨がぱらついたり、一日中雨が降り続くと言った割に昼には虹が出ていたり。だから俺には傘を持ち歩く習慣がない。降られたらその時傘を買えばいいし、多少の雨なら濡れたって。
***
あの夜もそうだった。
一日晴れの予報だったくせに、帰宅途中で降り出した雨は勢いを増し、あっという間に本降りの大雨になった。すでにスーツはずぶ濡れで、革靴の中の靴下は足を出すたび生ぬるい雨水が滲み出る始末。コンビニに寄る気力すら失せて、形ばかりの小走りで家路を急ぐ。あと3分で家に着くというところで、家の鍵が無いことに気づいた。
マジか。最悪。どこに忘れた。
ぐっしゃぐしゃに濡れたまま、その場に立ち尽くして記憶の断片をかき集めていると、頭上がサッと明るくなって、雨の滴が遮られた。傘だ。
「大丈夫?」
凛と響いた声に顔を上げると、長いオレンジ色の髪と勝気な目が特徴的な、小綺麗な女が立っていた。
「あ、あぁ」
「あ、なんだ。泣いてるのかと思った」
大丈夫そうね、と笑う表情が、太陽のような女だと思った。
それからどんな言葉を交わしてそうなったのか、もうよく覚えてはいないが、俺は女の家に上がり、女を抱いた。居心地も身体の相性も抜群に良かったが、こういう女はさっぱりと一回限りで割り切るのだろう。俺も向こうも、慣れていた。
翌朝、窓の外は晴れ渡っていて、部屋に差し込む日差しが眩しいくらいだった。
「ねぇ」
すっかり乾いたシャツに腕を通していると、シーツに包まりながら女が声をかける。
「今日夕方、そうね、17時頃から雨降るわよ」
「あ?」
「傘、お昼休みにでも買っておけば?」
「俺ぁ天気予報は信用しねぇ」
随分具体的な指示だと思いつつ、ボタンを留めながら返事をする。すると女は、まぁいいわ、と笑って言った。
「またずぶ濡れになっても、今日は入れてあげないから」
それが傘のことなのか、部屋に、という意味なのか、胸につかえた疑問をコップの水で流し込んだ。どちらにしても寂しいな、と、過ぎる気持ちをごまかしたくて。
「じゃあ、行くわ」
「うん。気をつけて〜」
未だベッドに転がったまま、ひらひらと手を振っている。
「ナミ」
つい数時間前、何度も呼んだ名前を、味わうように口にする。
「ん?」
オレンジの頭がひょっこりとのぞく。
「ありがとう」
俺の声に、太陽の笑みが咲く。ひらり、と舞った手のひらを見届けて玄関のドアを開け、視界に広がる快晴の空に目を細める。めちゃくちゃいい天気だ。雨なんか降りゃしねぇだろ。
外に足を踏み出すと、ドアの横に立て掛けてあった水色の傘が目に入る。昨日の夜、ナミと一緒に入った傘。まだしずくの滴るその傘に、隣に立った時のナミの匂いや、そのあとの刺激的な感覚が一気にブワッと駆け巡る。いかんいかん、これから仕事だってのに。
気を取り直して思い切りドアを開き、大きく足を踏み出した。ドアが閉まるギリギリのところで、ナミの声が聞こえた気がした。
「またね、ゾロ」
その日の夕方17時過ぎ、パソコンに向けていた視線を窓の外に投げると、そこは雨粒に濡れていた。
本当に降ったのか。
朝の晴れ渡った空を思い出し、ナミの笑顔を思う。いい、女だった。その上、当たる天気予報を知っている。今度どこの天気予報を見ているのか聞いてみようかと考えて、連絡先など知らないことに思い当たり、心の底からガッカリした。
数時間後、会社を出る頃には、雨は小降りになっていた。傘はなくても平気だろう。ロッカーの足元、奥の方に落ちていた家の鍵をしっかりと握りしめ、ゆったりと足を踏み出して家に向かって歩いた。薄く濡れていく髪もスーツも、雨水を遮る水色の傘を待っていた。
その夜ナミには、会えなかった。
それから数日、濡れたまま帰ればもしかしたら、などと考えていつまでも傘を持たずにいても、雨は降らずに快晴続き。そのうちに、あの雨の夜の記憶はだんだんと薄れていって、あの一夜が夢か幻だったような、そんな気持ちになっていた。
あの夜から3ヶ月経った。季節が変わって仕事は繁忙期に入り、残業続きで疲れ切った身体を引きずって迎える週末。夜空を黒く覆う雨雲が今にも泣き出しそうなのを見てうんざりする。降り出す前にさっさと飯と酒を調達して帰ろうと、立ち寄ったコンビニで見つけた、オレンジの後ろ姿。
すぐに分かった。ナミだ。
思いがけないタイミングでの再会に、跳ね上がった心臓の音を耳の中に響かせながら、その隣に足を進める。
「よぉ。なにしてんだ」
「え、あぁ。久しぶり」
昨日ぶり、みたいな口調で軽やかに返された。そうこの感じ。カゴにはビールに酎ハイにいくつかの乾き物。
「オヤジかよ」
「はぁ? 失礼ね。可愛いレディです」
「仕事帰り?」
「そ。あんたも?」
「そ。あ、俺のも」
ナミが持っていたカゴを取って、俺の分のビールを数本その中に入れる。少しだけ目を見開いて俺の顔を見て、すぐにビールの陳列棚に手を伸ばす。
「明日休み?」
「ああ。おまえも?」
「うん。うちでいい?」
「ああ」
少し強引かと思ったが、受け入れられたらしかった。ドクドクと鳴り止まぬ心臓の音を身体中に響かせながら、また会えたことに心から安堵する。会いたかった。
コンビニを出るとすでに雨は降り出していて、地面の色を濃くしていた。ナミは入り口に立て掛けてあった水色の傘を手に取り、当たり前のように俺をその中へ招き入れた。
そうしてナミの家に行き、晩酌もそこそこに、俺たちは身体を重ねた。自覚していたよりもずっと、俺はナミに惹かれていたらしい。もう一度その身体を抱いて、半日も一緒に過ごしたら、もう離れられなくなっていた。その日から、俺はナミの家に転がり込む形でナミと生活を共にした。
元々寝に帰るだけの家だった。いくつかの替えのスーツと下着、部屋着なんかを持ってきて、仕事用のカバンにパソコンと書類を詰めたら、それで事は足りた。ナミの部屋での生活はすぐに馴染んだ。ずっと前からこの部屋に住んでいたと錯覚するくらい、この場所は居心地が良く、二人の空気は自然だった。最初からこうなることが決まっていたと思えるほどに。
「ねぇ、今日雨降るよ」
朝、着替えを終えるかどうかというタイミングで告げられる雨の予報。一緒に暮らし始めてから、これは雨が降る日の恒例だった。この予報が外れたことは、ない。初めは、よほど正確な天気予報のアプリでも入れているのだろうと思っていた。しかし、家の中でナミのスマホはいつでもリビングの充電器に挿さっていて、朝一それを確認している訳ではないようだった。
「なぁ。気になってたんだが」
「ん?」
「おまえなんで雨降るって分かるんだ?」
素直な疑問だ。気象予報士でもなく、天気のレーダーを見張っているわけでもないのに、ナミの予報は外れない。何故そんなことが分かるのか。
「感じるのよね、それだけ」
さらりと溢れた言葉の潔さには、やけに説得力があった。気怠げに髪をかき上げながら、昼過ぎにはうねるからまとめちゃおう、と呟く輪郭が、綺麗に浮かび上がって見えた。
「これ、最初はみんな分かるんだと思ってた」
「……天気か」
「子どもの頃ね、外で遊んでた時。雨が降るから帰ろうって言っても、友だちはだーれも信じてくれなくて。お日さまがギラギラしてた夏の日だった。こんなに天気が良いのに降るわけないって、笑われてさ」
オレンジの髪はスラリと長い指に絡め取られてひとつにまとめられていく。
「でもそれから少しして、お日さまを雲が覆ったら、大きな雷が鳴り出してね。そこからはもうザンザン雨が降りっぱなし。だから言ったのに、って」
束ねられた柔らかな髪が揺れて光を反射する。こんなにいい天気なのに、それでもきっと、雨は降るのだろう。
「でもね、あ、これって私にしか分からないものなのかって、その時やっと分かった」
よし、と静かな声と同時に、くるりとまとまったオレンジ色の毛束が丸く弾んだ。
「私の当たり前は、みんなの当たり前じゃないんだって、初めて知ったの」
こちらを向いたナミの表情は、光に眩んで見えなかった。
「時間大丈夫なの?」
「ん、あっ、やべぇ」
「傘持っていきなさいよ〜」
「へいへい行ってきます」
「いってらっしゃ〜い」
背中に受けた笑い声だけがキラキラと耳に残った。
雨上がりの蒸し暑い夜。セックスの後、珍しくすぐに腕から抜け出してシャワーを浴びると言い出したナミの後を追いかけて、狭い風呂場に着いていった。別に深い意味はない。ベッドから出ていったオレンジの髪が誘うように揺れたから、その程度の理由だ。
「お風呂溜める?」
「どっちでも」
「溜めよ。一緒にはいろ」
脚や肩に引っかかっていた下着をするりと抜き取って浴室へ入っていく流れるような所作に見惚れる。綺麗な女だ、と、改めて。
「入んないの?」
呼ばれて慌ててパンツを脱ぎ捨てナミの後を追った。ナミがシャワーを浴びる間に俺は浴槽を磨き上げ、軽く身体を流して空の湯船の中に二人向き合うように入り込む。狭い狭い小舟に二人きりで乗り込んだみたいな、非日常。ナミがキュッ、キュッ、と蛇口をひねり、ぬるめの湯を小舟に注ぎ込む。
「ね、聞いていい?」
「ん?」
「なんで開けたの?」
濡れた指先が左の耳たぶに触れる。
「どういう意味なの、左耳に三つ」
「あぁ〜、これなぁ……」
ピアスを器用に避けながら、俺の耳をナミの指が愛おしそうに撫でる。指の動きを心地よく感じつつ、続く言葉を見つけられずに軽く息を吐き出す。
「あぁでも、言いたくないならいい、聞かない」
「いや、そういうわけじゃねぇけど。まぁ、でも……面白い話ではねぇだろうな」
死んだ親友の話とか、俺のどうしようもない過去の話とか。そういうぐずぐずした俺の内面にまつわる話など、この太陽のような女に話して聞かせるにはあまりにも陳腐だ。言いたくない、というよりも、聞かせたくない、が正解だった。
「そっか。……じゃあ、話してもいいかなって思えるようになったら、聞かせてよ。全部を晒すにはまだ浅いわよね」
寂しげに消えたナミの声が耳の奥に沈む。なにをもって浅いというのか、どうすれば深くなるのか、その時の俺にはよく分からなかった。ただ言葉と共にスッと離れていく指先が惜しかった。
「こんな身体のすみずみまで晒しておいて何言ってんだよ」
柔らかな肌に手を伸ばして俺の上に引き寄せ、それで話は終わりになった。いつの間にか、小舟はただの湯船に戻っていて、俺たちはぬるい水の中、もう一度身体を繋げた。触れるナミの肌も髪も、漏れ出る声までもが濡れて俺に溶け込むようだったのに、その表情だけがぼんやりと朧げで。繋がっているはずなのに、すりガラス一枚隔てて向こう側にいるような、そんな感覚を覚えた。
「雨のにおい」
隣を歩くナミの口からぽろんとこぼれ落ちたその響きが、俺には新鮮だった。
「匂いなんかあんのかよ」
「あるわよ。透き通った青みたいな、リセットするみたいなにおい」
「わっかんねぇー」
「ははっ。そうねぇ、感覚だからねえ。まるっきり同じようには感じられないわ」
でもまぁ、悪くないにおいよ、と言ったナミは、笑っていたと思う。その表情がどんなだったか、俺はもう思い出せないが、太陽が笑ったと、そう感じたことだけは覚えている。
「いつも匂いで分かるのか?」
「んー、においだけじゃないよ。風とか、空の色とか、音とか、いろいろ」
「本当に感じてるんだな」
「そうよ」
得意げにふふん、と鼻を鳴らしたナミは、しかしすぐに視線を遠くにやって思い出すように話し出した。
「だから、みんなも同じだと思ってたのよね。見れば分かるじゃない、感じるじゃない、って」
「そういうのは、あるよな。ガキの頃は特に」
「ゾロもあった?」
「……いや、ねぇな」
「なさそう」
「別に同じじゃなくて良いと思ってたから。違って当たり前で、俺くらい強い奴は他にいねぇと思ってた」
「ガキ大将じゃない」
「あぁ。まぁそんなんも思い上がりで、俺より強ぇ奴はいたんだけどよ」
「うん」
その相槌が話の続きを促すものだと分かっても、後に続く物語を伝える気持ちにはならなかった。それを伝えようが伝えまいが、俺とナミとの間になんの変化ももたらさないと、そう思うから。不自然に流れる沈黙が重くなってしまう前に。
「どんぐらいで降るんだ」
「あぁ、雨? 一時間、くらいかな」
「早く買い出しして帰ろうぜ。酒屋寄ろう。刺身に合う酒買って飲むんだろ?」
「うん」
空いた方の手を差し出すと、躊躇いなく握られた。自然だよな。変わらないよな。繰り返し自分に問うて歩を進める。
気付けば二人の間には、沈黙だけが残っていた。
雨雲はいつから出来ていたのだろう。
俺たちの間で少しずつ生じたズレは、その時々、蒸発したように見せかけて頭上に溜まって雨雲になっていた。いつ降り出してもおかしくない、禍々しく膨らんだ黒い雲に、ナミはきっとずっと前から気づいていたに違いない。ナミの変化には気付けても、雲の存在には気付かない俺に、ナミは何を思っただろう。言葉すら交わさなくなっていった俺たちに、雨が降り出したのは間も無くのことだった。
別れ話は簡潔だった。
言われるだろうと分かっていたし、受け入れるだろうと思われていた。そういうところは言葉にせずとも伝わるのに、どうして、一番肝心なことは言葉にすら出来ない。胸の内に渦巻く気持ちを置き去りにして、やっと開いた口から出るのは「ごめん」とか「ありがとう」とか、そんな気持ちの乗らないセリフばかり。
本当はまだ好きだった。もっとずっと一緒にいたかった。
しかし最後の最後まで素直な気持ちはかけらも伝えられないまま、俺はナミと過ごした家を出た。俺の分の傘は置いていくことにした。
扉が閉まる瞬間、ナミの声は聞こえなかった。
***
鼻先に当たった冷たい滴。雨だ。ほらな。天気予報は当てにならない。
こうして触れて、目で見て、聴いて、やっと雨だと認識できる。俺はいつもそうだった。
「雨のにおいなんて、ねぇじゃねえか」
力なく笑うしかなかった。ナミが出していたはずのサインも、前触れも、何も感じられなかった。俺にとっては急な雨でも、あいつにはきっと、そうなるずっと前から降り出すことがわかっていた。
回避できないのが雨なのだと、なるべく当たらずに過ごすことしか出来ないのだと、いつかナミは言っていた。きっと俺たちの別れも、回避することはできなかった。わかっている。頭では、わかっているのに、こんな雨の日にはどうしても、心にナミが顔を出す。
好きだった。本当に、好きだった。
言い争いなら山ほどしたし、険悪になって気まずい空気を共有することだってあった。楽しいことばかりではなかったはずなのに、思い出すのは痛みのない瞬間の出来事ばかりで。もうあいつがどんな顔をして笑うのか、どんな涙を流していたのか、思い出すこともできないのに。
「間抜けだな、俺ぁ」
かろうじて進めていた足がとうとう止まる。口に出してしまったらもう、溢れ出すのを止められなかった。
「会いてえよ……ナミ……」
本降りの雨の中、立ち尽くす男の姿はさぞ滑稽なことだろう。ずぶ濡れで雨を避ける術もなく、ただそこに立っていることしかできない。雨水が跳ねる地面を滲む視界に入れながら、離れてしまったことを今さらながら後悔する。
いや、本当はずっと。ナミの家を出たあの瞬間から、ずっと後悔していたのだろう。心から惚れた女を手放し、居心地の良い空間から出ていくことを望んだわけではなかった。それなのに、自分の気持ちに蓋をして、ナミが望むならそれで良いなどと格好つけたバチが当たったのだ。別れた時から一年以上も経ってから、ようやくちゃんと自分の気持ちに向き合った。遅すぎる。もう取り返しのつかないところまで来てしまっている。振り返ったところでそこにはもう……。
頭に当たる雨水がパチパチと弾かれる音にハッとする。耳に届いたのは、聴き慣れた女の声だった。
「……大丈夫?」
頭を上げれば、水色の傘。立っていたのは、オレンジの髪の。
「っ、ナミ……」
「本当に泣いてた」
そんな気がした、とぽつりと呟く自分の方こそ泣きそうな顔をしながら、「バカね、本当バカ」と俺の頬を拭う。冷えた指先の感触にようやく、そこにナミがいるのだと実感する。
「ちょっと、痩せた?」
「わかんね」
「怖い顔がよけい怖くなっちゃうわよ」
涙を堪えるように笑うその表情にたまらなくなる。
「ナミ」
「うん」
「……やり直したい」
ちゃんと言えた。わずかに見開いた瞳が涙の雫をこぼす前に、ナミをこの胸に抱き寄せた。その手から傘が放り出されて、綺麗に整った髪も服も雨に濡れていく。
「離れてからすげぇ……後悔した。雨が降るたびおまえのこと思い出して。なんで隣にいないんだろう、どうして手を放したんだろうって」
言いながら腕に力が入る。もう二度と放したくない。
「もう一回、やり直したい」
最初から、全部。
「……そのつもりがなきゃ、わざわざ探して傘に入れたり、しないわよ」
ナミの腕が背に回って濡れたスーツごと、ぎゅっと俺を抱きしめる。しっとりと濡れた服越しにナミの柔らかな肌を感じた。
久しぶりに入ったナミの家は時を止めていたように、俺が出て行ったあの日のままだった。俺の私物を置いていたスペースはそのまま何もない空間になっていた。俺の場所がまだナミの中にあったことが、嬉しかった。
「ナミ、」
「ダメよ、ちゃんと拭いてかっ」
言葉を遮るように唇を塞いだ。雨に濡れてひんやりと冷えた唇は甘く溶けるように合わさる。ぺたりと肌に張り付く布は二人の境を曖昧にする。不快なはずの生ぬるい温度をナミと分け合い昂る身体。本当に久しぶりで、これだけでもう。
「してぇ、ナミ」
「……せめて髪は拭かせて」
ふい、と目を伏せ俺の手を一度きゅっと握ってから、ナミは濡れた足跡を付けながらタオルを取って戻ってきた。少し大きめのタオルを俺にかぶせ、わしゃわしゃと頭を拭き始める。
「帰りにたまたま見かけたの。その髪の色、すぐに分かった」
動かす手は止めずに、しかし力は緩く抜けていく。
「もう一年以上も経ってるのに、あんたのこと見たらもうダメ。忘れようとして見ないようにしてきた気持ちがぶわぁって、溢れちゃって。慌てて追いかけた」
その手の動きは撫でるように柔らかなものに変わっていく。
「すぐに追ったのに。ゾロって帰り道でも迷子になるのね? 全然見つからなくて。そのうちに降り出してきちゃうし、あんたは傘持ってないし。見つけた時は嬉しいよりも、ホッとした」
タオルを外して細い指が髪を撫でる。
「濡れちゃう前にって思ったのにね。遅くなってごめんね」
この泣きそうな笑顔を、なぜ思い出せなかったのだろう。何度もこの顔をさせた。俺の一言一言に、ナミはこんなふうに笑っていた。その意味をその時の俺はこれっぽっちも分かっちゃいなかった。ナミの小さな悲しみを見ないふりをして通り過ぎてきた。
「ごめんは、俺の方だ」
ナミの手から取ったタオルを濃くなったオレンジ色の上に乗せる。
「お前はいつも綺麗すぎるから。外側も内側も整った人間だから、お前に釣り合うように見せかけたくて、……どうしようもない俺の過去のこととか、情けねぇ内面のこととか、全部……見せないようにしてたんだ、あの頃」
「うん」
包み込むように覆ったタオルで、長い髪を挟みながら手を滑らせる。染み付いた動作が自然と出てきたことに安堵する。
「そんなもん話したってきっとお前は揺れたりしないのに、自分を良く見せることばっかり考えて、……くだらねぇ見栄張って。そういう俺の態度がお前を不安にしてたって、別れてやっと……気付いた」
重たくなったタオルを捲り、ナミの顔を覗き込む。濡れた頬に手を添えて、触れるだけのキスをした。
「好きだ、ナミ」
ずっと。
今まで口にしてこなかった気持ちを、やっと伝えることができた。泣きながら何度も小さく頷くナミを腕の中に閉じ込めて、もう一度キスをしたら、止めることなど出来なかった。
久しぶりに感じるナミの肌もにおいも、何も変わらず好きなままだ。確かめるように髪に、頬に、指を滑らせて、何度も何度も小さな口を吸った。シーツに逃げ込まれ「もう無理! おしまい!」と怒られても、馬鹿みたいにナミにくっついて離れずにいた。
「ゾロってこんなに甘えただった?」
「格好つけんの、やめることにした」
「ふふっ、そっか」
くるりとこちらに向き直るナミをすぐに捕まえて腕の中に招き入れる。
「私も、やめよっかな。かっこつけるの」
すぐそばで柔らかく細められる目に胸が騒がしくなる。
「整ってなんか、ないのよ。しゃんとして見えるようにしてただけ。本当はいびつで、不安定で、自信ないの。だからずっと、あんたの強さが羨ましかった」
見つめられた深い色の瞳にゆっくりと惹き込まれていく。
「だけど、あんたも私も、同じだったのね。良いところばかりじゃなくても、私はゾロが好き」
細い腕が俺の腰に回り、首元に頬を擦り付ける。降る雨に想い続けた女の肌を感じながら、まどろむ明け方を迎える。何度も夢に見たこの光景に、夢では見ることの出来なかった笑顔がくっきりと浮かび上がる。心の底から満ち足りた始まりの朝は、雨の朝。
終
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