たった二文字。『ママ』という響きにこれほどまでに翻弄される日が来るなんて。
子をもうけて一年と半年。生まれてきた息子はそれはもう可愛くて、目に入れても痛くないとはよく言ったものだと心からの同意をする。いや、実際あの小さな指の先で目を突かれた時は悶絶したものだが。しかし、そんな比喩を理解できるくらいには、俺たちの子どもは俺たち夫婦にとって可愛い存在だった。
生まれて直後、そのふっくらと丸い頬を細い指で撫でながら、ナミはぽつりと呟いた。
「私たち、ママとパパになったのね」
俺もナミも血の繋がった両親はいなかった。
概念としての父や母という存在は理解していたし、その役割を担う周りの大人たちは、幸いにして俺たちをそれぞれあたたかい愛を持って育ててくれた。そんな役割を、今度は俺たち自身が担うことになる。
ナミの妊娠が分かった時、二人で決めたこと。どんなことがあっても、子どもの前では俺は『パパ』で、ナミは『ママ』でいること。
大切な仲間であり、かけがえのない友人でいた時間が長かった俺たちが、男女になって、人の親になる。世の中一般から外れた生き方をしてきた俺たちに、親という役割を与えてくれた子どもへの感謝を忘れないように、家族が互いに柔らかな気持ちで接することができるようにと、ナミが強く望んだことだった。
夫婦となってからもどこか仲間の延長のような気持ちでいたところから、親として、二人で役割を果たしていこうと、気持ちを新たにした出来事だった。
そんな決意を持った日から時は経ち、生まれてきた息子は健康にすくすくと育っている。まだ薄い髪は金に近いオレンジで、くりっと丸い目元なんかはナミによく似ている。しっかりしてきた足腰で歩く姿は一丁前に人間らしく、片言ながら言葉も出てくるようになってきた。日々の成長を喜ばしく思う反面、ナミとの約束がじわじわと重みを増していく。
「なぁナミー」
「パパ! シンの前ではママって、何回言ったらわかるのよ!」
「ぁみ〜」
「ほら! すぐ真似するんだから。シン、『ママ』よ」
「まんま〜」
「ナミはナミだよな、シン」
「あ〜み」
「もぉ〜〜〜パパっ!」
悪りぃ、と軽く笑いながら謝ったら、ゴツン、と拳骨を落とされた。呼び方なんかよりもよっぽど教育に悪いんじゃないかと思いつつ、甘んじてその罰を受ける。
確かにあの時、どんなことがあっても『パパ』と『ママ』でいる、と約束はした。それがまさか呼び方にまで関わってくるとは思いもよらず、今になってその壁にぶつかっている。
ナミは初めこそ戸惑いながらたどたどしく「パパ」と呼んでいたが、すぐにその呼称を受け入れて、今では名前で呼ばれる方が少なくなった。
対する俺はと言えば、気持ちの上ではナミをシンの『ママ』として認識している。けれど自分の口からその音を発するとなると話は別だった。どうしてもそのふんわりと甘い響きが恥ずかしい。
母。お母さん。母ちゃん。ママ。
どれも発した記憶のない、母親への呼びかけ。経験のないことへの抵抗は、歳を重ねるごとに強くなる。いい大人になってから『ママ』だなんて。
「……よねぇ、どう思う? ……ちょっとパパ? 聞いてる?」
「あ?」
「ぱっぱ」
膝によじ登るシンを抱き上げてナミに向き直る。
「もう、ちゃんと聞いてよ。もう明後日なのよ? ルフィたちが来るの」
「あー、そうかもうすぐだな。飯はコックが作ってくれんだろ?」
「こっこ?」
俺を見上げてシンが尋ねる。
「コック、だ。まぁひよこみてぇな頭だから、コッコでも当たりだな」
夢の海を見つけたコックは、その海の果てで小さな海上レストランを構えた。味もさることながら、食べれば身体の調子が整うという『バイタルレシピ』が好評らしい。
「また適当なこと教えて。サンジくん、シンも食べられるようにいろいろメニュー考えてくれてるって。あとウソップがシンにオモチャ作ってきてくれるみたい。何個まで持ってきて良いかって聞かれた」
ウソップはその手先の器用さやデザインセンスの良さを活かして、便利な道具や子ども用のオモチャをはじめとする雑貨、服や靴なんかをオーダーメイドで作る会社を起こした。一点ものの雑貨や服はなかなかの値段らしいが、仲間の特権で今のところ対価を要求されたことはない。
メリー号をくれたアイツの村のお嬢様と家庭を築き、得意なことを活かした仕事も軌道に乗っている。一味の中ではアイツが最も真っ当な生き方をしているかもしれない。
「この前はえらい数持ってきたからなぁ」
「ま、どうせルフィがシンと一緒になって遊んで壊しちゃうんでしょうけど」
「るひぃ!」
俺たちの船長、ルフィは相変わらずの冒険少年だ。傘下にあった海賊船を渡り歩いて旅をしながらの冒険の日々。寄港するごとに船を変えるから居場所がなかなか掴めず、その消息は噂レベルで信憑性のないものばかりだ。
たまたま直近の立ち寄り先がコックのレストランだったルフィは、乗ってきた船が出航しても飯食いたさにコックのところに居座ったらしい。元々予定して俺たちのところへ遊びに来るはずだったコックに便乗し、ルフィも久しぶりに遊びに来ることになった。
「そうよシン。びよーんのお兄さんがルフィ。コックのサンジくんと、オモチャのお兄さんがウソップ」
腕を前に突き出してルフィの真似をするシンの頭を撫でながら、ナミが話を続ける。
「近くでライブするからってブルックも来たがってたみたいだけど、あの見た目でこの前はシンが大泣きしちゃったでしょ? また今度ってことにしたみたい」
ブルックは相変わらず。ソウルキングとしてヒットソングを連発し、なにやら記録を樹立しているらしい。まぁ会えばただのエロガイコツだが。
「アイツの歌は好きなんだがなぁ」
「お腹にいる時から聴いてたからねぇ」
ふ、と表情を緩めたナミは、ふんわりと身体を覆う服の上から、膨らみ始めた腹を撫でる。新たな命を宿した身体。その穏やかな表情に、なんとも言えないあたたかな気持ちになる。
「こいつもきっと、気に入るな」
ナミの手に重ねるように俺の手を伸ばして、一緒に腹を撫でると、シンが怒ったように俺の手を引き離そうとする。
「ぱっぱ! めっ!」
「おーなんだよ、ナミはお前んだってか?」
「パーパ?」
咎める視線が二人分に増える。同じ顔をして睨まれては敵わない。
「あー……ママ、な。なぁんか調子狂うんだよなぁ」
ナミに伸ばした腕を引っ込めるとシンは満足気にナミの膝に擦り寄って、まぁま〜、と甘えている。
「いい加減慣れてよね。ママって呼ぶくらいなんてことないでしょ」
「俺にとっちゃナミはナミなんだよ。今さら『ママ』とか……」
「慣れの問題よ。はい、練習〜。私は誰?」
「ナミ」
「ママでしょそこは!」
軽く小突かれた眉間にシワを寄せ、口角を下げてせめてもの反抗をする。
「約束、したわよねぇ?」
”約束”という言葉にギクリとする。俺がその響きに弱いことを知っていて、ここぞという時に口に出すあたり、さすがはナミだ。海賊王の航海士だった女は、元船員の乗りこなし方まで一流だった。
「パパ? 私は誰?」
「……ママ」
「よくできました」
語尾にハートでもつきそうなご機嫌ぶりでナミはにっこりと綺麗に笑う。呼び方一つで何が変わるわけでもあるまいに、とは思いつつ、ナミが大切にしたがった親としての役割の半分を担う者として、対になる呼び方をそろそろ身につけていくタイミングなのかもしれない。二人の子の父と母になるのだから。
「ねぇパパ。この子の性別、知りたい?」
シンを膝に乗せたまま、腹を撫でてナミが言う。
「もう分かったのか?」
「うん。この前ドクター・チョッパーに診てもらったから、その時に」
優秀な船医だったチョッパーは、今や世界に名だたる名医の一人(一頭?)だ。船で世界中を周りながらあらゆる難病、奇病を治療すると評判の奇跡のドクターは、航路の関係で妊娠の経過を一時的にしか診られないからと、定期的にさまざまなサプリメントや妊婦も飲める薬なんかを送ってくれる。
「この前って、だいぶ初期だろ。分かんのかよ」
「分かったみたい。なんたって奇跡のドクターだからね」
まるで自分のことのように自慢するナミの背後にあのトナカイが見えた気がした。
「当てる。女だろ」
「本当に〜?」
「女」
自信があったわけではないが、願望も含めて言い切ってみる。ニヤニヤと緩むナミの表情。
「ふふっ、当たりよ。女の子だって」
「おーマジか」
「マジよ。シンには妹ができるねぇ」
言いながらナミがひょいとシンを抱き上げて頬にキスをすると、キャラキャラと嬉しそうな笑い声が上がる。
「楽しみね、パパ」
花開くような笑顔がこちらを向く。ふわりと柔らかな笑顔には、ママという響きが似合うと思った。
「そうだな、……ママ?」
照れながら発したその呼び方に満足そうに頷いて、ナミは腕の中の息子をぎゅっと抱きしめた。
◆
「あ、パパー。サンジくんからお手紙」
「おー。シンどうだって?」
「元気そう。写真も」
ポストを開けた娘から手渡された写真には、オレンジの短髪を風に靡かせながら釣り竿を握り、照れ臭そうに笑うシンの姿。
15になった年に船出したシンは、母親譲りの航海術で海を渡り、旧友のコックに弟子入りした。ついこの前16になったシンの様子を知らせる手紙は、そのほとんどが俺への憎まれ口と、ナミと娘を褒め称える言葉の数々で埋め尽くされている。息子の様子は写真で見ておけということなのだろう。
まだあいつがガキの頃、遊びに来たコックが振る舞った飯の味が忘れられないと、海の果ての海上レストランに修行に行きたいと言われたのは、シンが13になった時だ。俺は目を丸くしたが、母親には予め相談していたのだろう。ナミは黙って頷いただけだった。
それから、一人で偉大なる航路を乗りこなせるようになるまで二年。ナミは仕事の合間にシンを海に連れ出し、航海術、変わりやすい天候への対処、海上での生き方を叩き込んだ。
教えたことは何でもある程度のレベルでこなせる子だった。剣術も航海術も、身の回りの家事全般も。一つのことしか出来ない俺とは違う、器用なタイプだった。
「あ、ママおかえり! サンジくんからお手紙来てたー」
「ニオ、ただいま。シンどうだって?」
「ん」
仕事から帰ったナミに手紙と写真を手渡すと、目を細めてそれらを眺めた。
「この写真、なんだかパパそっくりね」
「そうか?」
「うん。若い頃のパパによく似てる」
「え〜パパ、こんなに爽やかに笑えたの?」
「最初っからこんな悪人顔じゃなかったのよ」
「あ? 誰が悪人だ」
「パパ怖〜」
「ね〜。さ、ニオ、稽古疲れたでしょ。お風呂沸かそう」
「はーい」
母親の後を追って行く緑の髪のポニーテール。
剣術を極めたいと言い出したのは、娘のニオの方だった。赤ん坊の頃からそこらへんに落ちている木の棒なんかを振り回して遊ぶおてんばな娘で、兄のシンをよく泣かせていた。幼い頃から身近にあった剣に興味を示したのはある意味自然なことだったかもしれない。
ニオにはシンのような器用さはなかったが、実直に、コツコツと鍛錬を積み重ねる根気があった。やればやるだけ上達する素地のよさもあった。母譲りの気の強さも勝負の世界では好条件。今ではこの村の同世代の中では最も腕の立つ剣士だ。
「パパー! 玄関にお魚届いてるからお刺身にしておいてってママがー!」
家の中からよく通る声が聞こえて来る。
「おー了解ー。ママどの魚にするとか言ってたか?」
「んーとね、」
すでに服を脱ぎかけた薄着のニオが玄関を開けて顔を出す。
「おい、服を着ろ。お前露出が、」
「なによ〜パパだってママだっていつも薄着じゃない」
そう言われてはぐうの音も出ない。俺にいたっては今半裸だし。
「えっとね、この大っきい魚はおろして切り身に。こっちの青いのと赤いのはそのままでよくて、これは硬いからウロコ取っといてだって。それから……」
「刺身だけじゃねぇのかよ」
「しょうがないでしょ? ママも私も女の子だから非力なのよ。力仕事はパパやっといてね」
「……っとにママそっくりだな」
「だって私ママの子だもん。あ、だからお刺身はこの魚ね、よろしくー!」
指示し終えるとひらひらと手を振りながら家の中に戻っていく。シンが家を出てすっかり女系家族になった我が家では、こういうことが日常茶飯事だ。
言われた通り、庭先で魚の処理をしていると、仕事着から着替えたナミが外に出てきた。
「ありがとうパパ。そのウロコ硬いでしょう? 気をつけてね」
今日はどこぞの学会で講演をしてきたらしい。海賊全盛期を終えた今でも、安定しない海を乗りこなす航海術について教えを請う者は多い。講演依頼を受ける際のギャラ交渉はお手のもの。家庭と村でのみかん栽培の合間でできる好条件の依頼を受けては、金銭なり食材なり、果てはブランド品まで様々な報酬を受けている。
「このお魚ね、ウエストブルーのものなのよ。身が締まってて程よく脂ものって美味しいんですって」
「へぇ。これが今日の報酬か?」
「んー、あと講演料としていくらかね」
「さすがだな、ママは」
ガリガリと皮をしごきながら応じる。剥がれていくウロコが夕陽に反射してキラキラと光って散っていく。
「自然になったよね、呼び方」
「あぁ?」
「ママ、って。呼ぶのすごい苦労したじゃない。覚えてる?」
「……あぁ」
キラ、キラ、と飛び散るウロコが、隣に寄ったナミに貼り付く。
「あんなに恥ずかしがってたから、きっと定着しないんだろうなって思ってたの。一時的に呼んでても、そのうちまた戻っちゃうんだろうな〜って」
「あぁ〜そうだなぁ。あん時は死ぬほど恥ずかしかったわ。まぁでも、」
その場にしゃがんだナミが俺の顔を覗き込むから、自然視線が交わった。
「シンが生まれてちょっとした頃、言ってただろ? 親でいられる時間なんてそう長くないんだから、その時間をもらえる間は思いっきりパパとママでいよう、って。思いっきり、ママでいてもらうには、俺もそう呼ぶべきだって思ってな」
意外そうな表情で俺を見るまん丸の瞳のすぐそばに、虹色に光るウロコが一つ。そっと手を伸ばしてそいつを取ってやると、目を伏せて静かに口を開く。
「そんなこと思ってたんだ。知らなかった。シンが生まれたばっかりの時、私ちゃんと親になれるのかなって、ベルメールさんにしてもらったみたいにお母さんできるのかなって、変に緊張して、落ち込んでさ。多分、すごく気負ってたのよね。でもゾロは全然いつも通りの調子で、シンともそのまんま接してて、穏やかで。正直ムカつくって思ってた。ゾロに八つ当たりしたこともたくさんあったよね。今さらだけど、あの時はごめん」
服に貼り付いた虹色を一つ一つ取りながら、落ち着いたトーンで話を続ける。
「去年、シンが家を出て、ニオもどんどん大人になってきて、出来ることも増えて。どんどん私たちと対等になるじゃない?
ふと考えちゃうのよね。私はいつまでママでいられるんだろう、子どもたちが手を離れていったら、私は何になるんだろうって。あんたにママって呼ばれる度、私って何者なんだろうって、思ったりして。勝手よね。私がママって呼べって言ったくせに」
自嘲気味に言いながら虹色を夕陽にかざして、キラキラと反射する光を眩しそうに見つめる。
「でもなんか、思いっきりママでいられるのもあと何年もないのかもなぁって考えたら、そう呼んでもらえるうちはその響きを大事にしなくちゃって、パパの話を聞いて思い直しました。どうもありがとう」
夕陽に照らされ紅く染まる頬。向けられた笑顔はあの頃のまま、可愛らしくも意志の強い、俺の好きな表情だった。
「なぁ。俺をパパにしてくれて、ありがとう」
本当はその頬に手を伸ばして、華奢な身体を引き寄せてキスの一つもしたかったけど。自宅の庭先、近所の誰が見ているかもわからないところでそれを出来るほど、俺はもう若くない。せめてもの気持ちを表して、魚臭くなった指先を折り曲げた手の甲でする、と頬を撫でた。
「ねぇ、わがまま言っても良い?」
「俺で叶えられるなら」
そう伝えると、俺の耳元に口を寄せて小さな願望を呟く。
「あ? そんなんで良いのか?」
「良いの。しばらく聞いてないし」
「そうか?」
「そうよ」
ニコニコと期待を込めた表情で俺を見つめる妻を目の前にして、柄にもなく緊張を覚える。改めて言うのは得意じゃないが、大事な女のわがままくらい聞いてやるのが筋だろう。
「……ナ、」
ん? と見上げるその顔を見つめると堪らなくなって、抱きしめてしまいたい気持ちを抑えるのに苦労する。いや、抱きしめてしまえばいいのだろうが、それで終わる気がしない。せめて家の中で、と思った瞬間、良く通る声が庭まで響く。
「ママー! 着替え持ってきてー!」
ニオだ。
頭を抱える俺と呆れ顔の妻。娘の声に「はいはーい」と応じて立ち上がる妻の手をぎゅっと掴んで。
「ナミ、愛してる」
オプションの注文はなかったが、これくらいはサービスの範疇だろう。
沈み切った夕陽の色に頬を染めた愛しい妻が、家の中で呼ぶ娘の元へ足早に向かう。
揺れるオレンジのポニーテールの後ろ姿を眺めながら、今夜はその願いを存分に叶えてやろうと胸に誓う。
『私を呼んで、ちゃんと名前で』
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