気持ちを伝えるべき瞬間に言葉を飲み込んだことが、数え切れないくらいある。二人で酒を飲んでいるとき。初めて唇を合わせたとき。セックスをしたとき。俺が野望を叶えたとき。あいつの夢が果たされたとき。今なら言ってもいいのではないか、と思いながら、どうしても言葉にすることはできなかった。
言葉にしなくとも伝わっているという慢心があったことは否めない。いつだって俺の意気地のなさを見透かして、その上で俺を許している。ナミはそういう女だった。俺はその心地よさに甘えて、随分と横柄な態度を取っていたと思う。いつまでも甘っちょろいお子様だと、ナミは内心わらっていたのかもしれない。
俺は歳を取った。世界一の大剣豪の名に恥じぬよう日々の鍛錬は未だ欠かしてはいないが、肉体の衰えを感じずにはいられない。数年前にルフィに会ったとき「まだ三本でやってるのか」などと笑われたが、いよいよ三本の刀が重く感じ始めている。何より変わったのは精神面だ。どんなに腕の良い剣士に出会っても、若い頃のような熱く血が沸く感覚はなくなった。楽しいことや嬉しいことが失われたわけではないのに、そうした中にどうしても終わりを感じてしまうことが格段に増えた。命は永遠ではない。いつまでも続いていくように思えた俺の人生も、確実に終末に向かっている。この当たり前の事実を身をもって感じ始めた今、残りの日々を後悔なく生きるにはと考えた時に、真っ先にナミの顔が浮かんだ。
ナミとは、旅を終えた後もつかず離れずの距離を保って関係を続けている。数ヶ月に一度、どちらともなく居場所を見つけては酒を飲んでセックスをして。口説いたり誘ったり、無駄な話をしなくとも良い慣れた空気が互いに心地よく、安らぎにも似た時間だと俺は思っている。正直、船にいた頃はいざ知らず、旅を終えてクルーが散り散りになってからは、ナミ以外の女を抱いたりもした。あの頃はまだ俺も若かった。肉体の欲求が満たされればそれである程度は満足できていたものだった。しかし、たまに会ってともに過ごす時間の心地よさや、共有できる感覚や価値観、最高に気持ちの良いセックス。どれを取ってもナミを超える女は現れず、ナミとの相性の良さを認めざるを得なかった。俺は間違いなく、ナミに惚れていた。
だがそれを口に出して伝えるというのはまた話が別だ。ここまで深い仲になっておいて今更改めて気持ちを口にするというのはある種、一度関係を壊して再構築するような、そういう破滅的な行為にも思えた。ナミもナミで、今まで一度だって言葉を求めたことはない。必要ないというのとは違うのかもしれないが、俺にそれを期待しているようには見えなかった。それはナミの気遣いであり、俺への配慮だったのだと思う。ある部分では俺より俺を知っているナミは、俺に無理をさせることはしなかった。俺はどこまでもナミに甘やかされていた。
だがようやく気付いた。俺の命が終わりを迎える時、どうしてもナミに隣にいてほしい。その日があと何年先なのか、もしかしたら数時間後にその時がくるかもしれない。その瞬間、俺はナミの手を握って人生を終えたい。出会ってから何十年も経ってやっと自覚するだなんて、己の愚鈍さに反吐が出る。だがそれでも、気付くことができたから。
「おう」
「あら~、珍しいじゃない大剣豪」
俺の姿を認めてにこりと浮かべた笑顔は、出会った頃に比べれば大分妖艶さが増したが、それでも俺と一つしか年齢が違わないとは見た目では誰も信じないだろう。さすがは魔女、といったところか。
「どうしたの? こんな辺鄙な島に何かご用事?」
「おまえに会いに」
「あらぁ。どうしちゃったの? やけに素直ね」
またこんなにはだけちゃって、とそばに寄った俺の着流しの襟元を直しながらナミは柔らかく微笑んだ。
「なぁ」
「あ、お金? 今日の晩酌代くらいなら……」
「好きだ」
俺の言葉に面食らったようにぎょっと目を見開いた。
「なに、言って……」
「ナミ、俺と一緒になってくれ」
まん丸に開かれた瞳に、じわじわと涙が滲み出す。
「ナミ、おまえが好きだ」
だらりと落ちた手を取って、ぎゅっと握りしめる。ナミの手は小さく、少しひんやりとしていた。頬に涙を幾筋も流しながら、ナミはにっこりと笑顔を咲かせた。
「知ってるわよ、そんなこと。あんた今頃気付いたの?」
強気な態度は出会った頃とちっとも変わらない。やっぱり、俺の好きなナミだ。
「はぁ。惚れた弱みとは思ってたけど。まったく鈍すぎてびっくりしちゃうわね」
「悪い。長く待たせすぎたな」
「本当よ。このままおばあちゃんになっちゃうとこだったわ」
「ギリギリ間に合っただろ?」
「ギリギリとは失礼ね」
わざとらしくしかめたその顔が、出会ったあの日に向けられたものと同じくかわいらしくて魅力的で、本当にとんでもない女だと心の底から驚嘆した。出会ってからどれだけ時間が経っても変わらないナミの存在が愛おしくて、ここが道の真ん中だとか周りに人がいるだとか、そんなことを気にする余裕もなくナミをこの腕に抱きしめた。
「ちょっ、ちょっとゾロ!」
「好きだ、ナミ」
「さっき聞いた! ねぇ人が見てるから……」
「愛してる」
抱きしめたナミの耳元で小さく、つぶやいた。溢れ出した気持ちをちゃんと言葉にできたと思う。腕の中で黙り込んだナミの髪にキスをして、濡れてしまった頬に指を滑らせた。指先が触れた頬は、しっとりと柔らかかった。
「ずるい。そういうの」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、やっぱずるいわよ」
言いながらナミは細い腕を俺の背に回した。
「待った分、ちゃんと幸せにしてくれなきゃダメよ」
「ああ」
「もうどこにも行かないで」
「ああ」
「私のそばにいて」
「うん」
「愛してるわ、ゾロ」
やっと俺を向いたナミの唇に軽くキスをした。ふふっ、と笑ったナミにつられて俺の頬も自然と緩んだ。身体を放すと胸にみかんの香りが残った。俺の好きなナミの香りだった。
「さて。行くか」
「どちらへ? 大剣豪」
「おまえの行きたいところへ」
緩く差し出した手は、ナミの手にしっかりと繋がれた。
「正しい判断ね。もう放しちゃダメよ?」
繋いだ手を軽く持ち上げていたずらっぽく笑みを浮かべた。やっと繋いだこの手を放すことなどできないだろう。俺の人生を導くのは、いつだってこの女なのだから。
終
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