懸想

ゾロナミ

ふたりの夜

 その夜、俺たちは海岸沿いの通りの先、岬をのぞむこぢんまりとした店で乾杯をした。最後は俺の知らない店に、と彼女が案内してくれたそこは、二人掛けのテーブルが一つ、カウンターの席が三席の小さな酒場だった。
 まだ早い時間だからか、客は俺とナミの二人だけ。暖色のランプが薄く照らす店内は、魚の鱗のように虹色に光る青いタイルが貼られ、テーブルもカウンターもつるりと磨かれた白い石で出来ている。窓から入るさざなみの音が心地よく耳に届く。まるで海の中にいるみたいだと思った。
 最初の酒が運ばれてくると俺たちはグラスを合わせて乾杯をした。ガラスの杯の中で細かな気泡がしゅわりと弾けて、果実の甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。一口含むと舌の上を滑らかに転がって、アルコールが心地よく染み渡った。
「こんな店あったなんて、知らなかったな。何度か来たの?」
「いいえ、初めて。でも噂を聞いて。ここいいお酒飲めるんですって。家庭料理風の食事や新鮮な魚のお刺身も美味しいって」
「へぇ」
 言いながら彼女はメニューを開いて、食事を選び始める。
「ねぇ、お米のお酒って飲める?」
「米の酒? あー……うん、多分。あんまり飲んだことないけど」
 米の酒なんて俺が行く安い酒場には置いていないし、この島じゃ滅多に手に入らない高級酒の部類に入る。
「じゃ、それに合うご飯選ぶわね」
 ここにそんな酒があることにも、彼女がその酒に合う料理を知っていることにも驚いた。いや、この店の貯蔵はともかく、彼女は世界中の海を旅した人だ。酒なんて種類も量も飽きるほど飲んできたに違いなかった。
 店主を呼んで、オススメなんかも聞きながら彼女はスラスラと注文していく。ランプの光を宿す紅茶色の瞳と、そこに影を落とす長いまつ毛。メニューと店主の顔を行き来する瞳が、そのたびにキラキラと輝く。
「なぁにぼんやりしちゃって。あっ、食べられないものあったっけ?」
「ううん。なんでも食べる。なんでも好き」
 そう、とにっこり笑う彼女は、機嫌良くグラスを傾ける。こく、と酒を飲み下す白い喉を盗み見て、俺もグラスを傾けた。
「米の酒、好きなの?」
「うんまぁ、……好きっていうか、飲み慣れてた、かな。メニューにあるから、懐かしくなって」
「飲み慣れるほど飲んでたんだ、さすがだね」
「大酒飲みがいたからねぇ」
 何かを思い出すように窓の外を眺めた彼女の唇は緩く弧を描く。
「あんたはさ、海に出たいと思ったこと、ないの?」
「ん? 海?」
「そう。海賊が好きだったんでしょう? 海に出てみようとか、考えなかった?」
「そりゃ考えたよ、子どもの頃はそれこそ毎日ね。親父と一緒にいかだくらいなら作ったし、海図や地図も少しだけ持ってる」
「へぇ」
「……君が描いたのも、図書館でコピーしてもらって3枚だけ、持ってる」
「あら、それはお金払って買ってよ」
「知ってるだろ、俺あんまり金持ってない」
「ふふ、そうね。地図は高いわ」
 笑って傾けた彼女のグラスはもうほとんど空になっていた。
「まぁ、海賊っていうのはこのご時世じゃ現実的じゃないわね。旅行で島の外に出たことは?」
「それもない。生まれてから今までずっとこの島で生きてる」
「そっかぁ。生粋の陸っ子だ」
 彼女が相槌を打つと同時におまちどうさま、と店主が酒とつまみを持ってきて、そこで話は途切れた。
 彼女が選んだ料理はどれも見たことのない一品ばかり。次々に運ばれてくるそれらでテーブルの上はあっという間に華やかになった。
 そして不思議な形の入れ物に入ってやってきた米の酒を、一口分くらいしかない小さな小さな椀に入れて、俺たちは二度目の乾杯をした。
 彼女は椀の縁にそっと口を付けて、三分の一ほどを口に含むと、ふ、と頬を緩めた。その美しい所作にひとしきり見惚れてから、彼女に倣って酒を含む。鼻に抜ける米の甘い香りと、舌を刺激する爽やかな辛味。
「あぁ、旨いね。本当に米の味がする」
「でしょ。あんたお米好きだから、気に入ると思った」
 嬉しそうに笑って、彼女はまた椀に口を付けた。
「このお酒ね、ゾロが好きだったお酒なの」
「ゾロ、って、……ロロノア・ゾロ?」
「そう。航海の途中で島に降りた時、これが手に入るとしばらくご機嫌でね。船の隅で昼から瓶抱えて飲んだりして」
 とろんと潤んだ瞳が椀の中の澄んだ酒を見つめる。
「なんかねぇ、似てるのよね」
「似てる?」
「あんたさっき、お酒口に入れて幸せそうな顔してた。その表情がね、ゾロに似てるの」
「俺、が?」
「うん。いや、よく見たら全然似てないのよ? 髪の色も違うしあんなに悪人ヅラじゃないし、態度もデカくないし、傷だらけじゃないし。あんたはすごく優しくて、どっちかっていうと可愛らしい雰囲気なんだけどさぁ。なんでかしらね。似てるなぁって感じちゃうの」
 俺の方を見ずに、独り言のように彼女は続ける。
「あの日、……初めて会ったあの時、ゾロがふらっと現れたのかと思った。逆光で顔が見えなくて、こっちにずんずん歩いてくるあの足音とか、話しかけてきた、その声の調子とか」
 ぎゅっと眉根を寄せた彼女が、泣いてしまうのではないかと思って、慌てて細い指先に手を重ねる。
「ごめん。失礼よね。あんたに誰かを重ねるなんて」
「いいよそんなの」
「良くない。良くないの。それはしちゃいけないことよ」
 俯いて首を横に振って、彼女はもう一度「ごめん」と呟いた。
「言わないつもりだったのに。ダメね。懐かしいものに触れると、感傷的になっちゃうわ」
 少しの間をおいて、食べよう、と顔を上げた彼女はもういつも通りの調子に戻っていて、これ以上その話題を続けることはできなかった。
 少しのわだかまりを残したまま、それでもテーブルの上に広がる宴を、二人で目一杯楽しんだ。時折翳る彼女の表情を見て見ぬふりをしながら、俺は勧められるがままに酒を空けていった。

 店を出ると陽は沈んでいて、外は宵の空気に変わっていた。月明かりを反射してキラキラ光る海を横目に、夜の散歩をしながら家までの道を二人で歩く。
「ナミ」
「んー?」
「今日、ありがとう。すごく楽しかった」
「ううん、こちらこそ」
 いつも少し前を行く彼女が、今はすぐそばにいる。同じリズムで歩を進めると、時々指先が軽くぶつかる。
「ねぇ」
「ん?」
「あんたって経験ないの?」
「えっ?」
「こんなに一緒にいて、今は手だって繋げる距離なのに、全然そういうことしないじゃない?」
「手は繋いだよ、昼間」
「あれはだって、そういう意味じゃなかったでしょ?」
 どことなく、寂しそうに聞こえた声色に心配になって、チラリと彼女の横顔をのぞく。街灯に照らされた彼女は口元に笑みを浮かべながら、泣きそうな目をしていた。
「欲とか、ないの?」
「欲は、あるよ」
「じゃあ私の方の問題か」
「問題なんて……」
「あんたには大人すぎるもんね。私は」
「そういうんじゃない」
 自分でも珍しくきっぱりと言い切ったと思う。隣で彼女がびくっと肩を震わせたのが分かった。本当に、そういう理由で手を出せないわけじゃない。
「正直、君には最初から惹かれてる。君が誰か知らなかった時から。わかるだろ? 俺から声をかけてるんだから」
「そうね」
「でも、だからって、君は俺みたいなのが易々と手を出して良い人じゃない」
「それは買い被りすぎだし、あんたは自分を卑下しすぎよ」
「そんなことない。こうして隣を歩くのだって、本当は俺には、」
 ふふっ、と小さく彼女が吹き出す。
「ごめん。本当あんた、いい子ね」
 必死すぎたか、と自分の勢いを反省する。
「なぁナミ。俺、あんなすごい大剣豪とはきっと似ても似つかないと思うんだけど」
 何度目か、触れた指先を捕まえる。
「代わりになるなら、代わりにしてよ」
 足を止めて向き合った彼女の顔に浮かぶ戸惑い。
「代わり、って……」
「もし君の隙間を埋められるなら、俺を使って欲しい」
 整った眉を寄せて、たっぷり二分は俺の顔を睨んでいた。そうしてふっ、と表情が緩むと、柔らかな手が俺の頬を撫でる。
「バカね。そういう時は『俺にしておけ』って言うものよ」
「え、」
「もしあんたが『俺じゃダメか』って聞いてきたら、『一晩だけ』ってその胸を借りたのに」
 そう言って眉を下げながら、彼女は優しく微笑んだ。
「あんたのそういうとこ、好きよ」
 ぽんぽん、と頭の上で彼女の手のひらが跳ねる。どこまでも格好がつかない自分が情けないと思いながら、それでもそうはならなかったことに、どこかホッとしていた。
「帰ろう。一緒に」
 繋いだ手をきゅっ、と握り返して二人、また同じリズムで足を踏み出す。誰もいない夜の通りで、二人分の足音だけが静かに響いていた。

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