午後のむかし話
行きつけの定食屋で遅めの昼飯を食べて外に出ると、外の空気は夏の昼下がりの暑さで、今引いた汗がぶり返すようにじわりと滲み出るのを感じる。
次はどこへ、と尋ねる間もなく彼女は海辺へ足を進める。砂浜の手前、開けた広場のベンチに座ると隣をぽんぽんとして俺を呼ぶ。誘われるまま隣に腰掛け、波打ち際で遊ぶ子どもたちを並んでぼんやりと眺める。
「あんたもあんなふうに遊んだの?」
「んー、俺はどっちかって言うと海よりこっちかな」
「こっち?」
「うん。ここで剣の稽古つけてもらってた」
「あぁ、習ってたって言ってたわね」
ここだったんだ、としみじみつぶやく彼女の様子はなんとなくいつもと違って見えた。何がどう違うかと問われるとうまく答える自信はなかったけれど、ほんの一瞬、普段俺と一緒にいる彼女とは違う人のように感じた。
「どんな感じだったの? 友だちとかと習ってた?」
「あぁ。商店街の子どもらは男も女もみんなここに来て、木刀振り回してた」
「へぇ。この辺に剣の達人が?」
「いや。外国のおじさんだった。この辺じゃ馴染みのないキモノ? みたいな羽織りを着ててさ。いつも片手に酒の瓶持ってて、左の眼に傷もあってめっちゃおっかなかった」
「そう、なの」
一瞬の間に違和感を感じたけれど、彼女はそのまま話を続ける。
「そんなおっかないおじさんが、よく剣なんて教えてくれたわね」
「俺が教えてって頼んだんだ。あの人、腰に刀ぶら下げて」
「何本?」
「えっ?」
「刀、何本だった?」
「一本、だけど……」
「そう。何色の刀だった?」
「色、……はごめん、覚えてない。すごく使い込まれてたけど、手入れはきちんとされてたと思う」
ふぅん、と静かに相槌を打って、彼女は黙り込んだ。しばらくの沈黙の後、彼女は再び口を開く。
「刀持ってる人なんて、そう多くなかったでしょ? 変だなって思わなかったの?」
「まぁ、変わった人だなぁとは思った。でも俺も変わった子どもだったし」
「海賊に憧れて?」
「そうそう。それにあの人、……こんなこと言うと君に怒られるかもしれないけど」
「なに?」
「似てたんだ。ロロノア・ゾロに」
ひゅっ、と息を呑む音が聞こえて、その後は風と波の音。俺と彼女の間だけが時を止めたように、言葉もなくただ柔らかな風が流れていくのを感じていた。
視線の先の波打ち際、しゅわりと泡立っては引いていく海のふちに、あの人が現れた日のことを思い出す。
彼がこの島に現れたのは、海賊王の一味が解散したというニュースが流れて数年経った頃だった。
解散の一報が出てからというもの、各種メディアはこぞってかの一味の話題を取り上げた。連日クルーの名前や顔、人柄、功罪、そしてその消息について、真偽不明の情報が湧き出るように繰り返し報道された。
当時、十にも満たなかった俺が、満足に理解もできない新聞やニュースに毎日目を通して、何度もこの目に焼き付けた憧れのクルーたち。内容こそ正しく理解はできなかったが、その名前と顔だけはしっかりと覚えていた。
それから一年、二年と日が経つにつれ徐々に報道は落ち着いていき、五年もすると彼ら話題をメディアで目にすることはごく稀になっていた。
ちょうどその頃だった。この海岸に見知らぬ男がふらりとやってきた。
着物のような合わせの襟は大きくはだけ、その胸元に大きな太刀傷。腰には刀。鋭い目つき。そして異様なほどの迫力。その姿はどこか見覚えがあって、胸の辺りがゾワゾワと騒ぎ出す。彼の正体を確かめるべく、広場の木の影から様子を伺う友人たちをよそに、俺は一人海岸へ向かった。
「あのっ!」
「……あぁ? なんだ、用か?」
砂浜を力強く踏みしめる足が止まる。男の第一声は予想以上に威圧的で、思わず怯みそうになる。
「う、あっ、あのっ」
正面から対峙したらよく分かった。左のまぶたに残る傷跡、珍しい翡翠色の髪。この人、きっと。
ジロリ、と俺を見下ろす眼。自然と足が後ろに退けて、踵が砂に埋まっていく。
どこから来たの?
あなたは海賊?
もしかして、ロロノア・ゾロ?
頭に浮かぶ疑問は、どれ一つとして言葉にはできず。代わりに口から飛び出したのは、自分でも予想し得なかったこんな言葉。
「け……剣をっ、教えて」
言って後悔。浮かぶ涙で視界が滲む。
俺を睨みつける眼光は鋭さを増して、斬り捨てられることを覚悟した。ぎゅっと目をつぶると、上から小さなため息の後、男の声が降りかかってくる。
「食うもん持ってるか、なんでも良い」
薄目を開けて盗み見た表情は変わらず険しくて、しかし声の調子は僅かに和らいだ気がした。
「あ、えっと、これでよかったら……」
肩に下げたカバンから取り出して差し出したおにぎりは、走り回って放られて形が崩れていたけれど、それを気にする素振りもなく大きなマメだらけの手のひらが、ずい、と目の前に差し出された。
包みを開けて一口、二口と半分。大きめに握ったはずのおにぎりは、二口半で男の腹の中に消えた。呆気に取られている俺に向かって、男はニィ、と口角を上げて見せる。
「美味かった。ごちそうさん」
いえ、と小さくつぶやくと、男は大きく伸びをして、コキ、コキと左右に首を鳴らす。
「で、お前の剣はどこにあるんだ?」
これが、俺とあの人との出会いだった。
俺があの人との出会いの記憶をたぐり寄せる間、俺の隣の美しい人はぎゅっとまぶたをかたく閉ざして、痛みに耐えるように静かに呼吸を繰り返していた。
彼女も思い出しているのだろうか。俺よりもはるかに濃く深く、長い時間を共にしたであろう、かつての仲間の剣士のことを。この表情の意味を、俺が知る日は来るのだろうか。
日陰のないベンチで午後の日差しに焼かれて、おろしたばかりの上等なシャツが勢いよく汗を吸収していく。虫も鳴かない昼下がり、俺と彼女の間の沈黙は、文字通り二人を音のない真空へと沈めていくようだった。
あぁ、白い肌が焼けてしまう。陽に透ける剥き出しの肩が赤みを帯び始めている。木陰のないこの場所を選んだのは彼女だったけれど、この沈黙を作り出したのは間違いなく俺の一言だった。ジリジリとした日差しを受け止める彼女の肩を、罪悪感と共に見つめた。
その肩が一度小さく上下して、真空に馴染む静かな声が長い沈黙を破る。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「なに?」
伏せたまぶたの先に伸びる、長いまつ毛がふるふると揺れる。
「その人は、ロロノア・ゾロだったの?」
あの人が、ロロノア・ゾロだったのか。
「正直に言っていい?」
「ええ」
「わからないんだ」
彼女をがっかりさせるのは分かっていた。けれど、そうだ、と言ってしまったら彼女をぬか喜びさせる。事情はよく分からないけれど、彼女はきっとロロノア・ゾロを探している。そんな相手に都合の良い答えを与えるのは、誠実ではないように思えた。
俺の答えを聞いて、彼女は頷いて、ゆっくりと目を開いた。
「そっか」
彼の名を出してからずっと、苦しげな顔をしていた彼女が俺に向けた表情は、整った笑顔だった。
「答えてくれてありがとう」
冷たいものでも飲みましょう、と立ち上がった彼女はいつも通りの軽やかさで足を踏み出す。少し先を行く彼女の後ろ姿にどうしてか不安を覚えて、小走りでその隣に駆け寄る。
ん? と俺を覗き込む彼女の手を取ってぎゅっと握る。
置いていかないで。まだそばにいて。
そんな子どもじみたわがままが、この指の先から染み出していくような気がした。
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