懸想

ゾロナミ

幸福の朝

「おはよ」
 階段を降りるとキッチンに立つ彼女が振り向いて挨拶をくれる。鼻孔をくすぐる香ばしい匂い。
「おはよ。朝から料理?」
「えぇ。今日仕事は?」
「ない」
「そ。じゃあデートしましょ」
 語尾に音符が揺れるような機嫌の良さで、初恋の人は俺を誘う。
「でーと? ってデート?」
「そうよ。他のデートを知ってるの?」
「いや」
「ふふ。ご飯食べたら一番良い服に着替えて。シャワーも浴びた方がいいかしらね。とりあえず、もうできるから食べましょ」
 いつになくご機嫌な彼女は小さく鼻歌を歌いながら、テーブルの上に次々と皿を並べる。彼女好みの硬いパンは均等にスライスされて、軽くトーストしてある。その隣にはバター。それからチーズの入ったオムレツと、トマトと俺の知らないお洒落な葉っぱのサラダ。カリカリに焼いたベーコンとウインナー。カットされたフルーツまで。
「わっ、えぇーすごいな。これ全部君が?」
「そうよ。冷めないうちに食べましょ」
 トン、と音を立てて置かれたマグの中、湯気を立てる澄んだ黄金色。
「わお、スープも。美味そう。顔洗ってくる」
 洗面台まで大股で進み覗き込んだ鏡には、顔中の筋肉がぐずぐずにゆるんだ寝ぼけ眼の俺が映った。

 開けたドアの向こう側、ギラギラと攻撃的な日差しを受けてまぶたが下りる。手のひらでそれを遮りながら、家の中からパタパタと出てきた彼女に声をかける。
「さて、今日はどちらへ?」
 ひらりと裾が揺れる青空色のワンピース。つばの広い白の帽子がよく似合う。
「この町、案内して」
「この町? 今さらじゃない?」
「ただ町歩きしようってことじゃないわよ。あんたの生まれ育った場所を、案内して」
 彼女の意図が掴めなくて小さく首を傾げてみる。
「あんたの歴史を見せてよ」
「歴史って。たかだか二十五年目の浅い歴史だけど」
「二十五年だろうが一年だろうが、人の人生は歴史だわ。それと、今日から二十六年目、でしょう?」
 言われてやっと思い出す。今日は俺の。
「お誕生日、おめでとう」
 帽子の中の笑顔がまぶしくて、思わず目を細めた。

 初デートの始まりは墓参りだった。どこから行くか、と考えていた横から彼女のリクエスト。俺の歴史の始まりは両親だろう、と言われて渋々了承。家の前の花屋でお供え用の花を購入して墓地へ向かう。
 俺の家は商店街の西の端に位置していて、そこから北へ丘をしばらく登ると見晴らしの良い墓地がある。海沿いは管理が大変だからと、母が亡くなった時に海の見える高台の墓地を購入した。海が好きだった母のために選んだ場所。今は親父もそこにいる。
「お世話になってます」
 彼女が抱えていた花束を墓前に供える。彼女によく似合っていたひまわりの花が、そのままの美しさで父と母の寝床を飾る。
「お父さんとお母さんの好物とか、持ってくれば良かったわね」
「いいよそんな、本気の墓参りになっちまう」
「本気よ? 私は」
 しゃがみ込んで刻まれた文字を読んでいた彼女が、振り向いて声を上げる。怒られているというのに、俺は帽子を押さえた彼女の爪の先がキラキラと光を弾くのに気を取られて、あぁ、綺麗だな、なんて呑気な考え事をした。
 
 丘を下りて商店街を並んで歩けば、そこら中から声をかけられる。名を呼ばれるのは彼女の方で、店の中から声の主が出てくるとようやく隣に俺がいることに気付く。
「なんだナッちゃん、今日はこいつのおもりかい?」
「こんにちは。今日はデートよ、ね?」
 同意を求める瞳が俺を伺う。肯定の返事をすることで彼女に不利益にならないか、考えているうちに二人の会話は進んでいて、口を挟むタイミングを掴み損ねた俺は会話の締めを黙って聞いていた。
「じゃあまたね。この前のパンも美味しかったわ」
「おうまた来てくれ。たくさん焼いて待ってるぞ」
 手を振ってパン屋のおじさんと別れる彼女は人懐こい笑顔を浮かべる。俺より年上のはずなのに、どこか幼く可愛らしさのある表情。それにこの快活さ。誰からも好かれるわけだ。
「すごいな。俺なんかよりずっと地元の人みたいだ」
「長いこと悪さしてるとね、その土地に馴染む方法なんて自然と身につくものなのよ」
 そう言っていたずらな笑みを浮かべる。かわいい。言葉にしたら失礼かな。
「なによ難しい顔しちゃって」
「ん、いや。『ナッちゃん』か〜って思って」
「変?」
「ううん。なんか親しげで羨ましかった」
「なんだそんなこと。ここの人たちに本名教えるわけにはいかないでしょう? あだ名で勘弁ってね」
 名を明かすことはリスクだと、いつかの夜にそう話していた。
「私たちの首はお金に換わるからねぇ」
 あっけらかんと話すけれど、きっと俺の想像をはるかに超える修羅場をいくつもくぐり抜けてきたのだろう。私たち、としたのはかつての仲間たちを思ってだろうか。
「あっ、ここじゃ名前知ってるのあんただけなんだからね。ほかの人には内緒よ」
 俺を見上げて口元に人差し指をそっと添える仕草にトクン、と心臓が鳴った。

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