懸想

ゾロナミ

淡く

 嵐の中の宴は二日目の終盤を迎えていた。空の酒瓶は九本目を数えたところからペースを落としながらも増え続けている。窓の外は幾分穏やかになったけれど、雨風が止んだわけではない。彼女の話ではまだ丸一日ほどこの島に居座るらしいこの大嵐が、もう少しゆっくりしていけばいいのにと思うくらいには、俺は彼女と二人きりの宴を心から楽しんでいた。
 ポツポツと交わされる会話は記憶から泡のように消えてしまうほど他愛のない内容で、その一つひとつに笑ったり怒ったり、心地よい程度の感情の揺れを伴いながら彼女との時間を彩る。そのやり取りが、隣合ったり向かい合ったりしながら過ごすこの時間が、俺にとっては最高のご褒美にさえ思えた。
 二日目の嵐の晩ももう半ば。一旦休んでもいいな、と隣の彼女に視線を向けると、とろんとまぶたを下げた彼女は可愛らしく話し出す。
「ねぇ、恋バナしようよ」
「えっ、恋バナ? 誰の?」
「あんたのよ、決まってるじゃない」
「俺のなんて、聞かせられるほど面白い経験ないよ」
「面白くなくていいのよ。あんたの、恋の話を、聞きたいの」
 ねぇ、ねぇ、と俺の方に頭をぐりぐりと押し付けて、話を促す彼女はとても幼くて、そのちょっとしたわがままを叶えてあげたくなる。
「本当に面白い話はないんだけど、いいの?」
「いい。私には面白いから」
「んー……じゃあ、初めてキスした話?」
「いいねそういうの」
「……十七の時、初めて自分の手で仕事して、初めてちゃんとした稼ぎが入ったんだ。親父の手伝いじゃなくて、自分でやったっていうのが嬉しくて、ちょっと大人になったような気になって」
「うん」
「入った稼ぎを持って酒場に行った。一人で店で飲んでみたくて、町のはずれの小さい酒場、ナミと初めて会った時に入った、覚えてる?」
「ええ、そこが舞台?」
「あ、うん、まあ。そんな期待した目で見ないで。そう、その酒場でね、ちょっと良い麦酒を飲んだ。酒なんてもうそれなりに飲んでたのに、その日はちょっと高揚してて、すごく、気分が良かったんだ」
「うん」
「二人掛けのテーブルで飲んでて、向かいに誰かいたら、もっと楽しいだろうなって思って、その時ちょうど店に入ってきた女の人に声をかけた」
「わお、ナンパだ」
「そうなるね。なんか俺軽い男みたいじゃない?」
「そうじゃないの? 私のこともナンパしたくせに」
「あっ、そう、なるね。俺めっちゃ軽いやつじゃん」
「ふふっ、今さら。それで? ナンパ師さんはどうやってキスまで持ってったのかしら?」
「や、ナンパ師とか……。うん、その人ね、大きな荷物持ってて、旅の人っぽかったんだよね。だから荷物持つから一杯付き合ってって頼んだんだ」
「やだチャラい」
「そういうんじゃないんだよ本当に! 俺別にカッコよくもなければ話も面白くないからさ、何か対価がないと一緒に飲んでもらうとか無理だと思って」
「ふ〜ん?」
「本当だって。そんなんで、まぁその人も了承してくれて、本当に一杯だけ一緒に飲んで。その人ね、酒すごい弱くて一杯飲んだらめちゃくちゃ酔っ払っちゃって」
「かわいい。それで?」
「宿は決まってるのかって聞いたら、あの酒場の3軒隣の宿取ってて。あ、あの頃はまだあの辺も栄えてたから宿があったんだ。だから約束通り荷物持って、その宿まで送って、手続きして部屋まで送ったんだ」
「えーそこで?」
「そんな楽しそうに。そう。部屋のドア開けて荷物置いたら、ピタってくっついてきて。気分でも悪いのかと思って大丈夫か聞いたら、すっと抱きしめられて。送ってくれてありがとうって、キスされた」
「やだ〜! そのまましちゃったの?」
「なわけないでしょ。すっごいびっくりして、そのまま部屋出て逃げて帰ってきた」
「やだ〜、無粋ね。その人あんたに気があったのに。きっと酔ったフリして誘ったのに。据え膳食わぬはなんとかって知らないの?」
「いや、初めてだったんだよ? そういうつもりで声かけたわけじゃなかったし、そんなことされるとも思ってなかったし」
 あはは、とひとしきり笑ってから、「あんたらしいね」とふにゃりと表情を崩した彼女は、俺の肩にピタリと身体を寄せる。
「ねぇ、じゃあ二回目のキスは?」
「もう覚えてないよ。俺の話はもういいでしょ」
「え〜。じゃあ、次にするキスは何回目なの?」
 急に甘ったるくなる声色に少し驚いて、彼女の方に視線を向ける。
「私とするキスは、何回目のキスなの?」
「……ナミ?」
 重たそうだったまぶたはすっかり下りてしまっていて、間も無く静かな寝息が聞こえてきた。
 俺の肩にもたれていた彼女の頭をそっと膝に乗せて、ソファの背もたれに引っ掛けていたブランケットを彼女の身体にかけてやる。「キス、したいの?」
 つるりと透き通る頬をひとつ撫でて、小さく問いかけてみても答えは返ってくるはずもなく。
「それは、俺と?」
 あの言葉が一体誰に向けられたものなのか、考えても仕方のないことを頭の片隅に置きながら、グラスに残った酒を飲み干して美しい寝顔を見つめた。

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