懸想

ゾロナミ

わがままひとつ

 祭りが終わって家に帰ると、家の中にはナミの気配が残っていた。留守の間に一度家に立ち寄ったのだろう。キッチンの水切りには、彼女がいつも使うカップが一つ置かれていて、逆さまになったカップの底にはわずかに水が溜まっている。しかし彼女の姿はどこにもない。
 三日間行われた祭りは盛況のうちに終わった。特段のトラブルもなく大きなイベントが終わり、普段の仕事より数倍高い報酬を受け取ってきた。以前の俺なら祭りの余韻と珍しく潤っている財布の中身に高揚して、いつもの酒場に朝まで入り浸り空っぽの頭で酒を飲んだりしただろう。
 今夜それができなかったのは、昼間の一件でざわついた心が波立ったまま、どうにも落ち着かせることができなかったからだ。十年前の出来事、先生の正体、消息、そしてそれを追うナミの気持ち。
 十年前から今に至るまでのさまざまな映像が、声が、気持ちが、想い起こされては消えていく。
 今はとにかくナミに会いたかった。核心に触れる話はできなくとも、彼女の顔を見たら安心できる気がした。
 ソワソワと落ち着かない気分を沈めたくて、何か余った酒はないかと冷蔵庫を覗き込む。と同時に、玄関の方からガチャ、と扉を開ける音がした。
「あれ、もう帰ってた。おかえり。お疲れ様ね」
「あぁただいま。ナミも、おかえり」
「ただいま」
 向けられた笑顔はいつもと少しも変わらず美しくて、胸のざわつきが別の意味のものにすり替わるのに大して時間はかからなかった。
「ねぇ、お祭りで何か食べた?」
「屋台の食べ物は何にも。その袋すごいね、重かったでしょ」
「うん。なんだかたくさんもらってきちゃった。商店街のおじさんたちもみんなお店出してたわね」
 ナミがテーブルに置いた手提げ袋は一つや二つではなくて、きっと通りかかる店々の店主から半ば押し付けられるように食べ物をもらってきたのだろうと、容易に想像がついた。
「お酒残ってたっけ? この前飲んだの美味しかったわよね」
 冷蔵庫を覗き込むナミの横に立って、奥の方に眠っていた瓶を取り出す。スッと避けた彼女から、甘いオレンジの匂いがした。
「屋台の飯には合わないかもしれないけど」
「いいじゃない、少し酔えれば。お祭り気分、あんたも少し楽しみましょ」
 そう言ってナミはもらってきた食べ物を袋から取り出して、テーブルに並べはじめる。中にはおじさんのガラス細工や革のアクセサリー、ドライフラワーの小さなリースなんかもあったりして、店主たちの下心が垣間見えて思わず苦笑する。
 冷えた酒とグラスを用意して向かい合って席に着けば、2人だけの宴が始まる。
「ちょっと冷めちゃったわね。もう少し早く戻るつもりだったんだけど」
「いや、ちょうど良かったよ。俺も帰ったばかりだった」
「そう? それじゃ、三日間お疲れ様」
 グラスを合わせて流し込んだ酒は予想以上に冷えていて、変に昂って熱っぽい身体を心地よく冷ましてくれた。
「そういや、今回はもうあと二日くらいで大嵐が来るって祈祷師が言ってた」
「二日じゃ来ないわ。早くて四日、大体五日後ってところね」
「え、そんなこと分かるの?」
「分かるわよ。航海士を舐めてもらっちゃ困るわ」
「さすがだな……なぁ、その嵐の間、ナミは……」
 どこで過ごすか、なんて聞いても良いものか、迷ってしまう。自由な彼女を束縛してしまうような気がして。
「どこで過ごすかって? どこで過ごして欲しい?」
 試すような、企むような視線を俺に向ける。
「正直に言えば、俺と一緒にいて欲しい、かな。同じ部屋にいなくてもいい、ナミの部屋にこもってても良いんだ。嵐の間、君がどこか、知らないところで過ごして万が一何かあったらと思うと……ちょっと耐えられない」
「私が嵐に巻き込まれるとでも?」
「いや。でも万が一があるだろ? もう、嫌なんだ」
 大切な人が嵐でいなくなるのは。
「何かあってからじゃ遅いんだ。ナミを縛りたいわけじゃないし、嵐の間何日も俺と一緒なんて嫌かもしれないんだけど。俺の……ワガママなんだけどさ」
 真っ直ぐ見つめた先、紅茶色の瞳が、ふっ、と緩む。
「優しいのね。ありがとう」
 テーブルの上、組まれていた彼女の右腕がふわりと浮いて、一瞬俺の方に伸びた気がした。しかしその手はすぐに引っ込んで、彼女のグラスに引き寄せられた。
「お祭りの間、どうだった? 何か面白いことは?」
 嵐の話はそれで終わりだった。嵐の間、俺の近くにいれば彼女の安全が保証されるわけでもない。けれど、どうしても近くにいてほしい。俺の知らないところで何かあって欲しくない。明確な答えはもらえないまま、その気持ちを伝えるだけで精一杯だった。

 二人で散々酒を飲んだ翌朝、下に降りるともう彼女は家を出た後だった。
 祭りの翌日から町中どこも大嵐を迎える準備を始めていた。海沿いに家や店を構える人たちはひとしきり建物の補強を終えると、早々に高台の避難所に移っていた。丘の下の商店街の面々も、表立った営業はせずに必要最低限の売り買いに留めていて、早めに窓や扉を封鎖する店が多かった。
 俺はといえば、無駄に大きな家の窓という窓を補強し、ついでに年老いた店主たちの店々の補強もして回った。
 そうして時間が経ってもナミの姿は見えなくて、うちじゃなくてもいい、せめて安全な場所で過ごして欲しいと祈るばかりだった。
 祭りが終わったちょうど四日後、勢いを増していく風が家の窓をガタガタと揺らしていた。バタン、と玄関のドアが閉まる音がしたのはずいぶん夜が更けてからだった。寝支度をして今まさにベッドに入ろうとしていたタイミング、聞こえた音に部屋を飛び出す。
 急いで階段を駆け降りてリビングに行くと、ちょうど電気をつけたナミと目があった。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「よかった。帰ってきてくれて」
 小走り気味に駆け寄って彼女の顔を覗き込む。一瞬、ハッと見開かれた瞳が揺れたような気がした。抱きしめたい衝動を必死で抑えて、華奢な肩に手を置くに留められた自分を褒めてやりたい。
「もう来ないかと思った」
「五日後って言ったじゃない」
「そうだけど。心配した。なんか飲む? お茶淹れようか」
「自分でできるわよ」
「いいから。俺がやりたいだけだから」
 苦笑いを浮かべながらも「ありがとう」と言う彼女の声が穏やかで、なんとなく、受け入れられたような気がした。
「夕飯は? 何か食べた?」
「ええ、済ませてきたわ」
 やかんを火にかけて彼女の方に目をやると、ソファに深く腰掛けて身体をもたれかけたその姿はいつもよりも疲れて見えた。
「ナミ、甘いの食べられる?」
「ん、甘いの?」
 ゆったりと首を回してこちらに視線を寄越す。
「うん。向かいの花屋のおばちゃんがくれたんだけど」
 この数日、補強のお礼に、という割に商店街の店主たちが「ナッちゃんにも」と一言添えてよこすから、一人で食べるのが忍びなくて手を付けられずにいるものがいくつもあった。
「チョコレート。有名なお店のらしい」
「あら。いいの? そんな素敵なの」
「ナッちゃんにも、ってもらったから。てか多分、ナッちゃんに、が正解だ」
「ふふ、ならいただこうかしら」
 箱を開けてほころぶ表情にホッとする。彼女には笑顔がよく似合う。
 そうこうしているうちにやかんが笛を鳴らした。湯を沸かしてから酒の方がよかっただろうか、と考えたけれど、今夜は彼女を労わりたくてハーブティー(これも花屋のおばちゃんがくれたものだ)にしておいた。
「ありがとう。いい香り」
 差し出したカップを大事そうに両手で包み込んで、彼女は口元にそれを運んだ。
「そんなに見ないの。恥ずかしいじゃない」
「あ、ごめん。来てくれたことが嬉しくて」
「あんなふうに言われちゃね、家出してるわけにもいかないでしょう?」
 揶揄うような口調だけれど、俺の気持ちを汲んでくれたことが本当に嬉しかった。
「ありがとう。俺のわがままに付き合ってくれて」
 こくん、と喉が動いて、彼女の視線が俺に向けられる。
「わがままなのは、私の方ね」
 眉を下げて笑う彼女がどうにも苦しそうで、また胸の奥がザワザワと騒ぎ出す。そんな顔をさせたいわけではないのに。彼女はいつでも俺の考えの先をいって、一人悲しみを背負ってしまう。
「なら、わがまま同士、ちょうどいいよな」
 全然釣り合っていないことなどよくわかっている。けれど、そうでも言わないと彼女はまた一人で悲しみの淵を歩き出す。
 せめてこの嵐の中では、俺と二人で、そこを歩いて。
「チョコ、食べようよ」
 一番小さい一粒を手に取って、彼女の唇に押し当てる。薄く開いたそこからのぞく白い歯が、チョコレートを齧り取る。触れた柔らかな感触と、ぬるく湿る指先にぞわりと緊張が走る。
 指の先で溶け始めるチョコレートを、ためらいながら口に運んだ。舌先から広がるほろ苦い甘さ。指についた名残をぺろりと舐めとると、彼女は明らかに戸惑った表情をして、それから頬を赤らめた。
 かわいい。
 そんな反応をするなんて思ってもみなかった。いつも余裕な彼女が、今夜は十代の少女に見える。頬を撫でてその紅色の唇に口を寄せてしまいたいけれど、そこまで強引にはなれなくて。じわじわと広がる嬉しさと照れくささと、ほのかに走る緊張感で言葉を失った俺たちは、口の中に残る甘さを思いながら静かにカップの中身を干して、それぞれの寝床についた。

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