懸想

ゾロナミ

出逢い

 俺が彼女に初めて出会ったのは、7月の初め、初夏と呼べる頃だった。
 陽が落ちかけた町外れ。寂れた酒場の薄汚れた壁一面に貼り付けられた古い手配書を眺める女性がいた。シンプルだけど仕立ての良い、一目で上等なものだとわかるサマードレスを身につけた彼女は、この灰色の街の景色からふわりと浮かび上がって見えた。透けるように白い肌と整った横顔に俺の目は釘付けだった。そのあまりの美しさに、この世のものではないのではないかと何度も何度も瞬きをした。
 そしてなにより目を引いたのはゆるく波打つ髪だ。その肩ほどの長さの髪は、眩しい夕陽の色に染まっていた。俺の憧れの女性と、同じだった。俺は吸い込まれるように美しいその人の側に寄り、隣に立って声をかけていた。
「気になるの?」
「んー……まぁね」
「その手配書の人たち、海賊王のクルーだ」
「へぇ、そうなの」
「俺の憧れの人たち」
「海賊に憧れてるの? 変わってるわね」
「ははっ、よく言われる。今どき流行らないって。でもな、この人たちはすっげぇカッコいいんだ。それぞれの夢を叶えたこともすげぇけど、生き様が、カッコいい」
「……ふーん。どうして私にその話を?」
「なんとなく君が、この女性に似てたから」
 指さしたのは、海賊王の航海士。色褪せて擦り切れた手配書の中、不敵に微笑むオレンジ色の髪の女性。
「俺の初恋の人」
 ガキの頃、世間を騒がせた海賊王のクルーの記事を親父にもらって集めていた。紙の中でしか見たことのない彼女が、俺の初恋だった。
「初恋、かぁ。それはそれは」
「なぁ、少し飲まない? 君と話したい」
「ストレートね。いいわよ、私で良ければ」
 くすっ、と彼女が小さく笑うと、その瞬間空気が弾けたように彼女の周りが明るく華やいだ。その余裕の微笑みに胸騒ぎがする。早く俺が連れていかなければ、と、半ば使命感に駆られながら手近な酒場に足を踏み入れる。
 並んで座ったカウンターで、いろんな話をした。ガキの頃にやった海賊ごっこ、宝探しに冒険の日々。教わった剣術のこと。勉強が嫌いなこと。酒が好きなこと。実入りがあまりよくないこと。海賊の時代が終わった今でも、彼らのように生きていきたいこと。そんな取るに足らない俺の話を、彼女は笑いもせずにうん、うん、と聞く。
 酒に酔っていたこともあって、俺はずいぶんよく喋った。聞くのが上手い彼女はちょうどいい間で絶妙な相槌を打ってくれるから、気付けば俺ばかりが話をしていた。彼女のことを知りたくていくつか投げた質問はいつの間にかはぐらかされて、気づけばただの一つも答えをもらってはいなかった。彼女はただ、俺の話を微笑みながら聞いていた。
 そうして閉店の時間まで二人で飲んでも、彼女は出会った時と変わらず涼しげで美しい。その横顔に見惚れていたら、俺よりさらに鼻の下を伸ばした店主が彼女に申し訳なさそうに退店を促す。なんの躊躇いもなく金を取り出す彼女に「悪いよ」とは言ったものの、正直この場を支払えるほどの手持ちはなくて、さっきまでのふわふわとした酔いが一気に醒めて現実が迫る。いつだって俺の世界は、狭くて薄暗くて貧しくて、クソみたいな日々の連続だ。
「楽しい話が聞けたから、お礼よ」
 俺の焦りや戸惑いなんてなかったかのようににっこりと微笑むと、彼女は俺の分まで支払いを済ませて「行きましょ」と席を立った。
「ごめん、俺から誘ったのに」
「いいわよ。お金そんなに持ってないんでしょう?」
「う、……まぁな。でもちょっと、見栄張りたかったっていうか」
「気持ちだけ、もらっておくわ」
 暗闇の中、彼女のサマードレスの裾がひらひらと優雅に泳ぐ。夢心地のひとときが、去っていく。
「なぁ。名前、教えてくれないか?」
 今日、二度目の質問だった。はぐらかされたものをもう一度聞き直すなんて、なんと無様なことだろう。
「そんなの聞いてどうするの?」
「忘れたくないんだ。夢みたいだったから、これで終わりは、寂しい」
 別れてしまうのが心底名残惜しかった。俺は彼女に惹かれていた。せめてその名前を口にして、この淡い夢を擦り切れるまで、呼び覚まして浸るくらい。しかしこれもきっとはぐらかされるのだろうと思っていたから、彼女が「いいわよ」と言ったのに一瞬反応が遅れた。
 彼女の艶やかな唇がゆっくりと開く。
「ナミ」
「えっ? なに、揶揄ってる?」
「どうして? 私の名を知りたいんでしょう?」
「だってその名は……」
「ナミよ。私はナミ」
「え、えっ、な……えっ?」
 ふふっ、と浮かべた不敵な笑みは、手配書の中の初恋の人そのものだった。
「ほ……えっ、本物?」
「本物ってなによ。私はナミ」
 少し不機嫌そうに眉間にシワを寄せる。
 あぁ、そうか。この人は、俺が憧れた初恋の相手、海賊王のクルーとしてではなくて、一人の女性として俺に名前を教えてくれたんだ。ならば一人の男として対峙するのが筋だろう。バクバクと破裂しそうな心臓を押さえつけながら、彼女の小さな手を取る。少し汗ばんだ俺の手は、振り払われることなく静かに受け入れられた。

 衝動的に握った手を引いて夜の端を歩いた。俺が見つけた宝を誰にも見つからないように、大切に、慎重に、家に連れて行きたかった。途中で少し言葉を交わしたかもしれない。緊張と高揚感で内容なんて一つも覚えちゃいないけど。
 そうやって必死になって家に連れ帰ったところで、俺は彼女に手を出せなかった。
 元々そういうつもりで手を取ったわけではなかった。ただずっとずっと憧れていた存在が目の前に現れた時、誰にも取られてはいけないと、半ば反射的に手を伸ばしただけのこと。俺が男で、彼女が女だという事実は、二次的な要素に過ぎなかった。
 彼女も彼女でそれを期待していた様子はなかった。きっとこれほどの素敵な女性なら男なんて選び放題。金を持った奴、外見が優れた奴、頭の良い奴、よりどりみどりだ。
 くすんだ家に帰って広さだけは無駄にある部屋に二人、スプリングの弾けたソファに並んで座った瞬間にふと冷静さを取り戻した。俺の日常のなかに入り込んだ、非日常。大変なことをしてしまったのかもしれない、と怖気付く俺を、きっと彼女は見透かしていた。
「まだ宿決めてなかったから助かるわ。ありがとう」
「いや、こちらこそついてきてくれて……」
 すみませんと謝るべきか、ありがとうと礼を言うべきか、口の中でモゴモゴと迷って、結局言葉にはできなかった。
「こんなこと聞くのもなんだけど、連れてきちゃって良かったの、かな?」
「どうして?」
「いやだって、ナミさんなら、」
「ふふっ、やめてよさん付けなんて。ナミでいいわ」
「っ、……ナミ、なら、こんなしょぼい男じゃなくて、もっと良い相手がいたんじゃないかと、思って」
 自分で言ってみじめになった。そりゃそうだろ。何を今さら。
「まぁそうね。あんたがしょぼいのは否定はしないかな。でも」
 うなだれた俺の頬に柔らかな手が触れる。ほのかに香るオレンジの匂い。
「選んだのは私よ」
 彼女の声にはっと顔を上げる。その表情は笑みの形をしていたけれど、綺麗すぎるその顔はどこか悲しげに映った。

 その夜からもうすぐ一ヶ月。俺たちの関係に、多分まだ名前はない。

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