キスからはじまる

ゾロナミ

「今日キスの日なんだって〜」

 スマホ画面を親指ですいすいと泳がせながらナミが言った。

「なんだそりゃ。そんな日があんのか」
「ねー。誰が決めてんのかしらね」

 話を振っておきながらさして興味もなさそうに画面を撫でる指先は快調に滑り続ける。光る液晶の真ん中に固定された視線が、ちらりと俺に向けられた。

「あんたいるの? キスする相手」

 流れていくと思われた話題は予想外に継続して、おまけにその中心に俺自身が据えられる。

「あ?」
「そういえば聞いたことなかったなって。結構一緒にいるのにさ、あんたの恋愛事情とか、聞いたことなかったから」
「んなもん、聞いてどうする」
「どうもしない。ただの興味よ」

 そう言う割に、視線はまた液晶画面へと吸い込まれていく。

 そんなのを聞いて何が楽しいのか、俺にはさっぱり理解できない。けれど学生の身分で話す娯楽的な話題といえば、こういった恋愛ネタが手っ取り早いのだろうと思う。
 ナミにしたって、俺の恋愛事情なんざ関心の向くものではなかろうが、時間にルーズな仲間たちが集まるまでの数十分間、隣にいながら無言でスマホとにらめっこというわけにもいかなかったのだろう。

「生憎だが、お前が楽しめるような話題は提供できねぇな」
「なぁにそれ。キスする相手はいないってこと?」
「恋愛とかは向かねぇんだよ」
「あら。元カノに言われた?」

 ナミの手から解放されたスマホがカタン、と音を立ててテーブルに置かれる。

「なに聞く態勢に入ってんだよ」
「ねぇねぇ、どんな子だったの?」
「そういうんじゃねぇよ」
「でもそれ、女の子に言われたセリフでしょ?」
「まぁ……」

 誤魔化すために啜ったコーラが思いのほか甘くてむせそうになる。

 ナミの言うことはあながち間違いではなかった。
 中学時代、見知らぬ女子から告白されたことがあった。俺の何を見て、知って、付き合ってみたいと思ったのかは見当もつかない。なにせそいつとの接点は皆無だった、はずだ。そんなよく知らない相手と付き合って、一体何をすれば良いのかわからない。これから知ってもらえれば良い、というようなことを言われたような気もしたが、とにかく無理だと断った。

 そう、無理だったのだ。

 付き合う、となったらある程度相手に時間を割かねばならないし、どこまで望むのかは知らないが身体的な接触もあるだろう。
 そうしたあれこれをその時の女に向けてできるとは到底思えなかった。だからこそ、食い下がる女を制して頑なに断ったのだ。

『もっと軽い感じでいいのに……なんかイメージと違うね。ロロノアくん、恋愛とか向かないよ』

 吐き捨てられたセリフがこれだった。
 大したダメージもなかったが、妙に腑に落ちたというのか。勝手なイメージとのギャップでそんなことを言われたのは癪だったが、まぁそうだな、と大いに納得した言葉だった。
 以来、俺はそういうものとは縁遠い、恋愛には不向きな人間だというレッテルを貼り付けて生活している。
 高校生にもなれば周りは彼女だ彼氏だと浮わつき出すが、俺には関係ないこととして平穏な日々を送っている。

「とにかくな、恋だなんだって、俺には関係ねぇんだよ」
「えー、つまんない」
「だから言ったろ。お前が楽しめる話題はねぇんだ」

 話を遮るために手を伸ばした冷めたポテトはしんなりと萎れて、持ち上げた途端にへこ、と折れた。

「んー、じゃあさ」

 指の先で折れたポテトをナミの指が捕まえて、そのまま小さな口へと放り込んだ。

「話題、作ろっか」

 ちょっとしょっぱいね、なんて言いながらもう一本ポテトを口に運ぶその顔は、なぜだか楽しげに見えた。

「作る、ってどうやって」
「キス、しちゃうとか?」
「誰と?」
「私と」
「誰が?」
「ゾロが」
「………は?」

 半ば睨みつけるように見つめたナミの真ん丸の瞳は、ぱち、とゆっくり瞬きをして、ふわりと笑みをたたえる。

「ちなみに私、初めてだよ?」

 このなりで『初めて』は流石に嘘だろ、とは言葉にせずに踏みとどまった俺を褒めてやりたい。
 お世辞抜きでこの女はモテる。恋愛なんぞに関心のない俺ですら、惚れただなんだという話題を耳にする。百歩譲って本命はいなかったとして、キスが未経験ということはないだろう。

「いやお前、からかう相手間違えてるぞ」
「からかってなんかないわよ」
「いやいやだって………いやいやいや」
「なぁによ、初めてがそんなにおかしい?」

 少しばかり不機嫌に顰めた眉と、尖らせた唇。ほんのわずかに染まる頬。あぁ、なるほど。『可愛い』と評される理由が少しだけわかった気がする。

「なぁ、初めてって、大事に取っといたんじゃねぇのかよ。なんで俺なんだ?」
「そんなの、それはさ……」

 斜め90度から身を乗り出して近づいたナミから、爽やかなみかんが香った。

「初めて『したい』と思えたのが、ゾロだったから」

 耳元で囁いてナミが元の席に戻っても、耳の奥でその言葉が反芻する。『したい』っていうのは、キスのこと、だよな?
 俺の疑問が伝わったわけではないだろうが、ハッとしたナミが慌てて口を開く。

「あっ、待って違うの。『したい』ってそういうことじゃなくてね。だからその、キス。キスをね、したいなって思うくらいには、ゾロのこといいなって思ってるって、ことで……」

 そこまで言うとナミは耳まで真っ赤に染まって、俯きながら溶けかけのシェイクを吸い込み、「もうやだ……」と呟いた。

「やなのかよ」
「やよ。こんなとこで言うつもりなかったのに」
「でも言っちまってたぞ」
「言っちまったわよ。あんたがそんな、ちょっと照れたみたいな顔するから」

 気のせいだと思いたかった顔の熱さはちゃんとナミに見抜かれていて、さらに言えばこの嬉しい気持ちもおそらくは表情筋に伝わってしまっていて。
 自分の中にこんな気持ちがあったことに驚いた反面、ナミが相手じゃ惚れずに3年過ごすことなど不可能だろ、と暴れる心臓に言い訳をした。

「あー……ナミ、」
「……なに?」
「ノートか教科書あるか?」
「ある、けど」

 そうして出てきたノートを覗き込むふりをしてナミの側に身体を寄せる。きょとん、とこちらを見るナミの表情が周りに見えてしまわぬように、開いたノートで遮って。

「ちなみにだけど、俺も初めて」

 それだけ告げて、唇を合わせた。
 触れた唇が小さく震えた。
 甘いシェイクの味がした。

「もう一回……」
「おーいゾロー! ナミー! 何食ってんだー?」
「悪りぃ補講伸びたー、ってお前ら、何かあったか?」
「いや、まだ」
「まだ?」

 不自然に近くなった距離を何食わぬ顔で元に戻して、後から来た仲間たちをレジに並ぶよう促す。
 レジに向かう奴らの後ろ姿を眺めながら、テーブルの下でナミの手を握る。

「この後、予定は?」
「帰るだけ」
「送る」
「ありがと」
「そん時、言わせて」

 まだ言えていない、はじまりの言葉を。

コメント

タイトルとURLをコピーしました