おとなり

ゾロナミ

 会社帰りの信号待ち。いつもの交差点を渡った先の小さなカフェバーは、道路に面した壁がガラス張りになっていて、あんなところで飯を食うやつの気が知れねぇといつも思っていた。しかし今日、俺は初めてあのガラスの窓に感謝することになる。
 あのガラス越し、一人掛けの席に座るオレンジ色の髪の女に何故か惹かれた。人の美醜に興味はないが、あの女の髪と目は、綺麗だと思った。豊かに波打つ長い髪は頭のてっぺんから毛先まで遠目に見てもツヤツヤで、店の照明の光をキラキラとまとっていた。それからあの目。気の強そうな、それでいて自由気ままな猫のような、希望を感じる目だと思った。
 しかしどこに行っても誰に会っても皆一様にマスク姿のこのご時世。マスクを取ったらそれほど好みの顔ではなかった、みたいなことはよくあるらしい。あの女も、そうなのだろうか。
 ぼんやりと女を眺めていると、間もなく店員が飲み物を運んできて、女はそれを小さく会釈をしながら受け取った。ビールだった。悪くない。
 こんもりと美味そうな泡を乗せた金色のその酒を口に運ぼうとして持ち上げたグラスを、何かに気づいたようにテーブルに置く。そして女は口元を覆っていたマスクをゆっくりと外した。

 ドンピシャだった。

 びっくりした。こんなことってあるのだろうか。可愛いとか綺麗とか、見た目的なことではなくてなんというか、ドンピシャだったのだ。こんな女に出会うことなどもう二度とないかもしれない。
 信号はいつの間にか青に変わり点滅しだしていた。俺は慌てて交差点を渡り、吸い込まれるようにその店に足を踏み入れていた。
 店に入ってあの女の座っていた窓辺の席に視線を巡らす。
 いた、オレンジの女。
 幸せそうに傾けるグラスの中身はもうほとんど空になっている。一杯で帰るだろうか。それとも飯を食ったりするのだろうか。様子を見ながらさりげなく女の隣の席に着く。隣と言っても、ソーシャルなんちゃらのせいで椅子一つ分はゆうに離れているわけたが。
 おしぼりを持ってきた店員にビールを頼み手を拭いていると、女のもとに食いもんが運ばれてきた。山盛りのポテトとソーセージ。パスタとか生ハムとかじゃねえのか。うん、悪くない。
「あ、ビールおかわりください」
 女の声は思った通りのはっきりと通る声だった。近くで見てもやっぱり髪はツヤツヤで、手を伸ばして触りたくなる。ついでに言うと肌は白くてやたらつるつるしていて、そのくせ血色が良くて健康的。あとは外からじゃ気づかなかったが、細身の割に胸がデカい。淡い色の無地のセーターが身体にフィットしていてラインが強調されている。胸が、デカい。
 チラチラと女を見ていると店員がビールを持ってきた。ジョッキがないので仕方なくグラス。今日もお疲れ。グラスを持ち上げたところで、マスクを外すのを忘れていたことに気づく。さっさとマスクを外してグラスに口をつけたところで、隣からカシャンと食器のぶつかるような音がした。女が使っていたフォークが皿に当たって床に落ちたようだった。運の良いことに、落ちたフォークは俺の左足のすぐ横に転がっている。グラスを置いて転がっているフォークを取り、近づいてきた女の方を見る。
 それほど高いヒールを履いているわけではなかったが思っていたより長身で、長めのタイトスカートがよく似合っていた。正面から見てもやっぱり。
「ごめんなさい、ありがとう」
「どういたしまして。新しいのもらった方が良いんじゃねえか?」
 ハッとしたように一瞬目を見開いて、すぐににこりと笑顔を浮かべる。
「そうね、そうするわ」
 そう言うとすぐに店員を呼び、女は自分の席に戻っていった。
 おいおい俺は何をやってるんだ。
 せっかくの好機、もっとちゃんと話せば良かったじゃねえか。せめて一緒に飲まないかと誘うことくらいできただろう。自分の犯したアホなミスを心から悔いて、グラスのビールを一気に呷った。店員を呼んでビールを頼もう。今日はもうヤケ酒でいい。
「ねぇ、あの、さっきはどうも」
 耳に心地よく響いた声に心臓が跳ねる。オレンジの女が、俺に声をかけたのだ。
「……あぁ、いや」
「あの、もし良かったらなんだけど」
 そう言って遠慮がちにフォークと小皿を俺の方に差し出す。
「これ、良かったら食べない? まだ手はつけてないの。思ったより量が多くて、食べ切れるか、心配で……」
 山盛りのポテトとソーセージの乗った大皿をチラリと見て、照れたように、少し申し訳なさそうに切り出したその姿が、可愛かった。
「いいのか?」
「残しちゃお店の人に悪いし」
「なら、遠慮なく」
 幸運というのは続くものなのかも知れない。今日の俺はものすごくついてる。思わずテーブルの下で拳を握った。ありがとう山盛りポテト。ありがとうフォーク。ありがとうガラス窓。
 俺は上機嫌で手を挙げて店員を呼び、新しいビールを注文した。

*****

 隣の席に着いた男は長身でガタイが良くて、変わった緑色の短髪だった。染めてるのかしら。顔のほとんどがマスクで覆われていて、顔ちっちゃいな、と思った。
 お待たせしました〜、と愛想の良い声が聞こえ、目の前に注文したポテトとソーセージの盛り合わせが置かれる。美味しそう。
「あ、ビールおかわりください」
 追加のビールを頼んで皿の中身に目をやれば、揚げたてのカリカリポテトにこんがりと焼き目のついたソーセージ。なんとも飲みたい欲をそそる脂の匂いに、仕事帰りの空っぽの胃が歓声をあげる。
 やだ、響いたかな。チラと隣の男を見ると、彼は目の前のビールに夢中で私のお腹の音には気づいていないようだった。その様子にホッとして、ソーセージに齧り付こうとフォークを手に取り何気なくまた視線を隣にやると、男がパッとマスクを外した。
 あ、いい男。
 思わずその端正な横顔に見惚れてしまった。一瞬気が緩んだせいで右手に持っていたフォークは手から滑り落ち、そのままソーセージの皿に当たって床に転がった。
 うわ、恥ずかし。運の悪いことに、転がったフォークは今しがた目を奪われていた男の足元に行ってしまった。緑頭の男もそれに気づき、長い腕を伸ばしてフォークを拾ってくれた。
「ごめんなさい、ありがとう」
「どういたしまして。新しいのもらった方が良いんじゃねえか?」

 え、ドンピシャ。

 びっくりした。正面から見た顔の表情だとか、淡々とした雰囲気だとか、スッと馴染む低音の声だとか、なんかもう全てが、ドンピシャだった。これを逃したら私、きっと一生後悔する。
「そうね、そうするわ」
 すみません、と店員さんを呼んで、新しいフォークと取り皿を二つお願いする。
 やらずに後悔するくらいなら、やって断られる方が全然良い。たっぷりとお皿に盛られたポテトとソーセージを口実に、私は彼に声をかけることに決めた。
「ねぇ、あの、さっきはどうも」
 うわ、もう飲み干してる。強いのかしら。同じペースで飲めるくらいなら、嬉しいな。
「……あぁ、いや」
 ああ、やっぱいい声。おしゃべりしたい。
「あの、もし良かったらなんだけど」
 店員さんが持ってきた新しいフォークと小皿を一組、彼の方に差し出す。
「これ、良かったら食べない? まだ手はつけてないの。思ったより量が多くて、食べ切れるか、心配で……」
 ナンパみたいかな、いや立派なナンパか。そういうの嫌いかなぁ………。
「いいのか?」
 いいのいいの! 首をブンブン縦に振りたい気持ちをグッとこらえて、ダメ押しの一言。
「残しちゃお店の人に悪いし」
 これも本当の気持ちではあるし。
「なら、遠慮なく」
 え、なに、そんな歯見せてニッカリ笑うの? ちょっとなにそれ聞いてない。もうやだこの人、やっぱり。
「もう酔ったのか?」
「えっ?」
「顔、赤ぇけど」
 いやあなたのせいですけど。
「あ、いや全然! あ、全然というか……あなた、お酒強い?」
「俺? 俺はまぁ……」
 言いかけたところで彼のビールがやってきた。
「じゃ、とりあえず」
「かんぱ……」
 あ、グラスが届かない。
「届かねえ」
「ソーシャルディスタンスだもんね」
「……そうだな」
「じゃあま、とりあえず」
「乾杯」
 お互いにグラスを少し持ち上げて、形ばかりの乾杯をする。私のビールはもう泡がくったりしてしまっていたけれど、そんなの気にならないくらい最高に美味しいビールだった。
「よく来るのか? ここ」
「ううん、初めて。このへんに来たのつい先週なの」
「へぇ。引っ越してきたのか?」
「そ。仕事の都合でね。あなたは? ここよく来るの?」
「いや、俺も初めて」
「え〜、偶然ね!」
 そう言うとああ、と相槌を打ちつつも男は私から視線を逸らした。あからさまに喜び過ぎたかしら。
「あ、ごめんなさい、うるさくしちゃった」
「あ、いや、そうじゃねぇ。こっちのことだ」
「ふーん?」
 投げた視線をかわすように男は豪快にグラスを傾ける。いい飲みっぷり。私も飲んじゃお。
「酒は、呑まれたことはねぇ」
「えっ?」
「強いのかって聞いただろ、さっき」
「あ〜、聞いた」
「強いかどうかは知らねぇが、呑まれたことはねぇな」
 このペースで飲んでいて呑まれたことがないってことは、強いってことだろう。
「あんたは?」
「私は、お酒は好きよ。あなたの言い方で言えば、私も呑まれたことはないかな」
 ニッ、と笑顔を向けると、男は切長の目を見開いて「おぉっ」と小さく声を上げた。何今の。何のおぉ?
「あんたさぁ」
「ん?」
「男の前でその顔すんのやめとけよ」
「へっ?」
「そんな顔向けられたら、期待しちまう」
「それってどういう……」
 私の言葉を遮って男は大皿に手を伸ばす。慌ててその皿を彼の方に寄せると、「ありがとう」と小さく呟く声が聞こえた。

*****

 反則みてぇな笑顔を真正面から食らってしまった。あれで落ちねぇ男はいねぇだろ。あー変な汗かいた。
「ねぇ、おかわりもらう?」
「あ?」
「ビール」
 大皿からポテトを取っていたら、女がそう聞いてきた。グラスを見ると中のビールは底にわずかに溜まる程度になっていた。
「ビールでいいの? 別のにする?」
「あんたは?」
「まだビールでいいかなぁ。ポテトとソーセージだし」
「なら俺も」
「すみませーん」
 自然な気遣いとテンポの良いやり取りがものすごく心地良かった。初めて会ったはずなのに初めてとは思えないほど、よく馴染んだ会話だった。
「一緒に頼んじゃった。いいわよね?」
「おう、ありがとう」
「どういたしまして」
 さっきよりは控えめに、それでも十分魅力的な笑顔を向けられて、俺は今日この女に手を出さずにいる自信がなくなってきた。会ったその日に手ぇ出すなんて引かれんだろうな。
「お待たせしました〜ビールで〜す! あ、お連れの方でしたらお席寄せてもらって大丈夫ですよ〜」
 わざとらしい笑みを貼り付けたテンションの高い店員がそんなことを言って去っていくから、女と顔を見合わせる。
「寄せてもいいって」
「俺は良いが……」
「じゃあもうちょっとそっち行くね」
 この方がポテト取りやすいもんね、と一言。まぁ、そうだよな。
「それに、乾杯もちゃんとできるわ」
 グラスを持ってこちらに向けているのに気づいて、慌てて自分のグラスを持ち上げる。
「かんぱーい!」
 嬉しそうにグラスをぶつけてゴクゴクと喉を鳴らしてビールを流し込む様を、ずっと隣で見ていたいと思った。

 閉店までの二時間は信じられないほど楽しくて、三分くらいしか経っていないのではないかと思うくらいあっという間に過ぎていた。呑まれたことがないと言うだけあって、女は俺と同じペースで同じ酒を飲み続けても顔色ひとつ変えずに、今も隣にしゃんと立っている。
 金曜日の22時。本当ならもう一軒誘いたいところだがこのご時世だ、夜の街を出歩いて遊ぶリスクを取る女ではないだろう。だけどもう少し、一緒にいたい。
「家どっちだ?」
「あっちの坂上がったところよ。ここからなら十五分くらいかな」
「送る」
 女はでも、と言いかけて少し考え、俺に向き直りふわりと目元に笑みを浮かべた。
「お願いしようかな」
 今日いったい何度目だろうか。マスク越しですら、そんな表情を向けられると胸のあたりがザワザワとして落ち着かなくなる。まったくすげえ女に出逢っちまった。
 ゆっくりと歩き出した女の歩調に合わせて、一歩一歩踏みしめて歩く。この時間が出来るだけ、長く続くように。
 たわいもない話をしながら五分ほど歩いたところで道は急に狭い上り坂になる。車が一台通れるくらいの歩道もない坂道。
「なぁ」
「んー?」
「さっきの店、俺も初めて入ったって言ったろ」
「うん」
「あれ、別に偶然じゃねえんだ」
「うん?」
「信号待ちで外からあんたを見かけてあの店に入った。あんたがあの席に座ってたから、俺はあの店に行ったんだ」
「えっ……」
「あんたに……おいあぶねっ」
 後ろから来た車に気付いて、咄嗟に手を伸ばしてしまった。抱き寄せた腰の細さと柔らかな感触に、鼻先に漂う甘い髪の匂いに、めまいがした。
 目の前に、女の顔がある。この至近距離で澄んだまるい瞳で見つめられて。これで手を出さないなんてもう無理だろう。そのまま顔を近づけてキスをしようとしたその時、口元を覆う忌々しい存在に気付いてしまった。互いにそれを自覚して気まずい沈黙が流れる。
 詰めていた息をふっと吐き出すと、こわばっていた肩や背が緩みそのままずるずると力を失う。
「……悪りぃ」
「う、ううん、ありがとう」
 ぎゅっと抱き寄せていた腰から俺の手が離れると女はふい、と視線を外してほとんどマスクに覆われた頬にそっと手を当てた。

*****

 ドクドクと駆けるようなリズムで鼓動する心臓が騒がしい。熱くなった頬を手で押さえると、冷えた指先が気持ちよかった。
「悪かった」
「びっくりした」
「すまん。そういうつもりじゃなかったんだが」
「……どっちが?」
「どっちって?」
「抱き寄せたこと? それともキス……しようとしたこと?」
 じっと見つめた男の眼は真摯に視線を返してくる。その眼の強さだけでもう十分すぎるくらいに想いは伝わっていたけれど、あぁとかいやぁとかそういう曖昧な音で気持ちを濁して欲しくない。
「……そういうつもりじゃねぇっつうのは、ちょっと違うかもな」
 真意をはかりかねて、首を傾げて言葉を促す。少しの間を置いて男はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「本当は最初から、あんたに触れたいと思ってた。あのガラス越しにあんたを見つけて、なんつうか、ドンピシャだと思ったんだ。飲んでる時、隣にいるのがすげぇ自然で、ずっと一緒ににいられたらどんなにいいだろうって、そう、思った」
 男は少し照れたようにカリカリと頭を掻きながら、でもちゃんと言葉にして言い切った。
「……私だって、そう思ってたよ」
 戸惑ったような薄い色の瞳をしっかりと見つめた。きちんと、伝わるように。
「フォーク取ってくれた時、もうその瞬間にしっくりきて、この出逢いを逃しちゃいけないって思ったの。あんなナンパみたいなこと、私初めてしたわよ」
 ほんの少し目が緩んで、マスクの下で彼が微かに笑ったのが分かった。
「あんたがさっき”ドンピシャ”って言ったの、ちょっとびっくりした。私もあの瞬間、ドンピシャって思ったから。初めて会ったと思えないくらい話も空気もスッと馴染んで、お酒も同じペースで飲めて。私たち、ぴったりだと思わない?」
 私が問うと、男はふぅーっ、と身体中の空気を抜くみたいに長くて深いため息をついた。
「我慢して損した」
「我慢してたの?」
「するだろ普通。そんなに常識ねぇように見えるか?」
「ううん。あ、でもなんていうか、ちょっと鈍いのかなって思ってた」
 笑いながらそう言うと、男も小さく笑ってつけていたマスクを取った。それから私の耳元に手を伸ばしてマスクの紐を外して、優しく私の身体を抱きしめた。
「最初からこうしてりゃよかった」
「最初にされたら引いてたわ」
「さすがにそうか」
 身体をぴたりとくっつけたまま二人で笑い合う。あぁ、好き。
「名前」
「ん?」
「名前、なんていうんだ?」
「あっ! そういえば」
 お互い名前も知らずに抱き合っているこの状況が滑稽で、また声を上げて笑ってしまった。
「ナミよ」
「……ナミ」
「うん」
「ナミ」
 耳元で呼ぶ声が心地良い。繰り返し、私の名を口にする度にぎゅう、と腕の力が強くなる。
「あなたは?」
 少しだけ身体を離して男の顔を見ようとしたその時、その表情を捉える前に唇が重なっていた。少し冷えた彼の薄い唇の感触に、胸の奥の方がきゅうっとなった。
「ゾロ」
 離れた唇が低く呟く。
「ゾロ?」
「俺の名前」
「一度聞いたら忘れられない名前ね」
「変わってるってよく言われる」
「あら、いい意味よ」
 ゾロ、ともう一度、味わうように名前を呼ぶ。ゾロもまた、私の名を呼ぶ。自然と視線は絡み合い、引き寄せられるように二つの唇は柔らかく重なった。

*****

 どれくらいの時間こうしていたのだろうか。抱き合って唇を触れ合わせ、時折顔を見合わせて笑い合う。こんな時間が手に入るなんて、つい数時間前には思いもしていなかった。今日も昨日の繰り返し。代わり映えのない一日の終わり。その時、目の前にナミが現れた。
 劇的な、というよりはすーっと溶け込んで俺の中に入ってくるような、そういう出会いだったと思う。こうして一緒にいることはもう至極当たり前で、この先この女を決して離してはいけないような気がした。
「ねぇ」
「ん?」
「寒くなってきました」
「ん、そうだな」
 腕の中に閉じ込めていた身体を解放すると、ナミはへへっ、と小さく笑ってごめんねと呟いた。
「もう少しこうしてたいけど、風邪引いて熱なんか出したら面倒じゃない?」
「今はそうだよな」
「またいつでもできるわよ」
 行こ、と差し出された右手があまりに自然で、反射的にその手を握っていた。軽く握ったその指先が思いの外冷えていて、そんなになるまで寒空の下抱き合っていたことに苦笑した。
「ねぇそういえば、ゾロの家ってどの辺なの? こっちって近い?」
「あー、俺ん家も坂の上のマンションだ」
「そうなんだ! じゃあ近いかもね〜」
「どうだろな。この道は通ったことねぇ」
「そうなの? この道駅から坂の上までの最短コースだけど」
「へぇ。知らなかった」
 ナミの家は駅前のあの店から歩いて十五分と言っていた。俺ん家はあそこからだとおそらく三十分以上はかかる。不動産屋のチラシには駅歩十五分なんて書いてあったのに。俺の家はナミの家を通り過ぎてしばらく行ったあたりなのだろう。坂の上はマンションやアパートがたくさんあった。
「着いた」
「は?」
「何?」
「ここ俺ん家」
「は?」
「いやマジで」
「うそうそ、何階?」
「7階」
「部屋番は?」
「705」
「うち703……」
「……隣かよ」
 冗談みたいな話だと思った。
 別れ際になんと誘えば俺の家に来てくれるのかとか、どんな口実をつければナミの部屋に上がれるのかとか、頭の中に渦巻く煩悩と戦っている間にナミのマンションに到着していて、しかしそこはすなわち俺のマンションでもあって。その上住んでいる部屋は隣同士ときた。どんな奇跡だよ。
 確かに先週末、隣の部屋から人の出入りする音が聞こえた。あれはナミの引っ越しの音だったのか。
「……なぁ俺ぁもう怖ぇんだが」
「なんというか本当、……すごい偶然ね」
「全然気づかなかった。一週間顔も合わせなかったよな?」
「あ、挨拶には行ったのよ? でも両隣ともピンポンしても返事がなくて、出かけてるのかなぁと思って。今週末また挨拶しに行こうと思ってたの」
 片方はその必要なくなっちゃったけど、とナミはふっと目元を緩めた。
 そう言われれば、先週末は何度か玄関チャイムが鳴った気がする。夢の中の出来事だと思いっきり無視をした。あの呼び鈴に出ていれば一週間も前にナミに出逢えていたのかと思うと、あの日の睡魔を恨めしく感じる。まぁでも今日こうして無事に出逢えたわけだから、許してやってもいいか。
 二人で乗り込んだエレベーターはゆるゆると引き上がり、俺たちの部屋がある7階へと到着した。降りてまっすぐ左手に居室が並び、エレベーター側から数えて三つ目がナミの部屋、四つ目が俺の部屋だった。
「部屋まで送ってもらえるとは思わなかったわ」
「俺もそのつもりはなかった」
 本当は少し考えたけど。いや結構、考えたけど。ニヤニヤとしたナミの目が俺をじーっと見つめている。
「今日は部屋には上げないし、あんたんちにも行かないわよ」
「何も言ってねぇだろ」
「そういう目してた。すけべ」
「アホか。男はみんなスケベだ」
「認めるんだ?」
「当たり前だろが。惚れた女目の前にしてスケベにならねぇ男がいるかよ」
「ふ〜ん、そっかそっか」
 楽しげに笑ったナミは俺の頭に手を伸ばしてポンポンと髪の毛を撫でた。なんだよポンポンって。ジト目でナミを見下ろすと、ナミは自分のマスクを顎にずらしてにこりと俺に笑顔を向けた。
「そんな顔しないで」
 そしてまたにこにこしながら俺のマスクを下に下げ、ちゅっ、と軽く触れるだけのキスをした。
「明日朝9時!」
「あ?」
「引っ越しの荷物、荷解きするから手伝いよろしくね〜」
 ひらひらと手を振りながらナミはさっさと自分の部屋に入っていく。扉が閉まる直前、ナミの顔がその隙間からひょっこりと現れた。
「終わったら今日の続き、しようね」
 にっ、と一瞬笑顔を浮かべて、ナミは扉の向こう側へと消えていった。
「あの顔でしようね、は……ダメだろ……」 
 閉じた扉の前で一人頭を抱えた。本当に、とんでもない女に手を出してしまった。出逢った瞬間からその名の通り大きな波に飲み込まれるみたいに、ナミに惹かれ続けている。きっとそうやって俺はナミに魅了され続けていくのだろう。この先もずっと、そのとなりで。

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